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六代

1 経歴  1173年生まれ。
父 平維盛
母 藤原成親の娘(建礼門院新大納言)

伊勢平家初代の正盛より数えて六代になるので幼名は六代丸。その後六代。高清。 妹に夜叉御前。

1183年、平家西走の時母や妹と共に京に残される。
高尾山の麓、菖蒲谷に母とともに潜んでいたところ、1185年12月源氏の北条時政の手下の者に捕らえられ、鎌倉へ送られていったが文覚上人の助力により助命され文覚に預けられる。

1189年早春、熊野へ来る。(平家物語) この時、維盛と会ったかという事であるが会っていたと思われる。

○この年、色川で維盛は盛安を出生させている。
○次の年頃に古座の娘(高川原の娘)に光盛を出生させている。
○古座には維盛が植えたとされるムクロジの巨木がある。
○古座の近く、下和田には維盛が植えたとされる椎の巨木がある。
○古座の奥、峰には六代が建てたとされる薬師如来堂がある。

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(六代の建てた薬師如来堂)

以上のことから古座あたりで会ったと推定できる。そして一ヶ月位共に過ごしたのではないか。 というのは、早春とは二月(旧暦)ごろと思われ、薬師堂を建てるのに一ヶ月位かかるので、その間一緒に居り、帰りに記念としてムクロジや椎を植えれば木を植えるに丁度良い季節となる。

1189年出家し妙覚と名乗る。ということは熊野へ来たその年に出家したことになる。

1198年吉田経房の陰謀により捕らえられ鎌倉へ送られ田越川の畔で岡部権守泰綱に斬られて死ぬ。27歳であった。

尚、経房はこの事を後鳥羽天皇より責められ、1200年出家後に死亡する。(暗殺説あり) 経房は六代の母親の建礼門院新大納言と結婚していたので、六代が何かと邪魔になったのであろう。 六代の墓は鎌倉の逗子や伊勢の嬉野、その他にある。

2 六代生存説

伊勢の美杉村太郎生(たろう)の日神(ひかわ)や、嬉野の日川には六代の生存説がある。

①  太郎生、日神。 ここの石仏群は有名で「三重県指定文化財彫刻日神石仏群」となっている。 また、近くには日神不動院や国津神社もある。 太郎生より1500m上がった所に六代の墓がある。

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写真で説明すると中央のは阿弥陀如来坐像で左にある五輪塔が六代の供養塔である。 近くには民家が数軒あるが、皆平家の子孫だというから六代を護った人達であろう。

ここは見晴らしの良い所で高貴な人を護るには良い所である。 この山は不動山といい、隣の城山には砦跡や見張台の跡が残っている。

また、少し離れてはいるが、隣の名張市滝の原には池の禅尼(平頼盛の母)が晩年に住んだ所がある。 この一帯は伊勢神宮の神領地であり、平頼盛の所領地でもあったので、六代を護るには良い所である。

②  嬉野森本町日川。  日川には六代の墓や六代の寺(宝樹寺)があり、六代を最後まで護った斉藤五(宗貞)の墓およびその子孫が住んでいる。

斉藤六(宗光)の子孫は五代目頃に日川を出て、多気町四疋田に移り法受寺を守っている折戸氏である。他に中川姓の人も居るが元は斉藤姓だったそうである。

斉藤家の話では太郎生の日神よりここに移り住んだということだそうです。 これ等のことから次の共通点が見出せる。

○ 日神も日川も共にひかわと読む。
○ 日川の寺は宝樹寺であり、多気町の寺は法受寺で共にほうじゅじと読む。 また、日川の人達は日川から遥かに遠い法受寺を菩提寺としている。
○ どちらにも墓があるが、日神のは供養塔であり、日川のは墓である。ただ日川の墓は六代と書かずに「唯有一乗法」と彫り込まれている。しかし裏面には、「敬有大乗妙覚企寺」と彫られているので六代の墓に間違いない。
(六代の墓)左
(斉藤五の墓) 右

3 成覚寺古文書

六代の父の維盛が死んだのは芸濃町河合の成覚寺(じょうかくじ)であるが、そこの 古文書には次の様に書かれている。(要約)

「1183年7月25日斉藤兄弟は六代を連れて大和路を経て伊勢国一志郡日川谷に落ち延びたが、源氏の詮索きびしく、北条時政が1185年上洛して平氏の残党を探せし時、六代は捕らえられ鎌倉へ送られ討ち首の沙汰あり、そこで斉藤兄弟は京都神護寺に住む文覚上人に六代の命乞いを願った。 文覚上人は馬にて鎌倉へ馳せ頼朝に面会し助命を願った所、頼朝は六代を文覚に渡され、文覚は六代を高尾において出家させ法号を妙覚とした。

10年後の1194年妙覚は鎌倉へ下向して頼朝と会う。かくして六代は日川に隠れ、折戸氏を名乗り剃髪して御名を宗英大阿闍梨と申す。 しかし程なく比叡山に登り顕密の二教を修学し、嵯峨の奥に隠れ住む。

日川の庵は六代の御息男が剃髪して住し大日薬師を安置し六代の位牌を安置し院号を日川院殿と名づけ、戒名を雄山英阿闍梨とし、この地を日川と付けられた。

後醍醐天皇の時祈祷寺となり宝樹寺となる。
織田信長が阿坂城の合戦のとき、比叡山の末寺を憎み国中の天台宗の寺をことごとく破却し宝樹寺も破却されたが、信長は平家のため六代の位牌堂はそのまま残してくれた。」 ここに書かれていることが全て正しいとは限らないが、「平家物語」は間違いが多いの で先ず否定してかからなければいけない。

4 六代の真実

そこで私は次の様に推理する。

○1183年平家西走の時、日神か日川に連れて来たのは本当だろう。理由として、斉藤兄弟は元は源氏であり、隠れ住む必要はないので、この様な山深い所に住んでいるということは、やはり六代を連れて来たとみるべきだろう。
○1185年見つかり鎌倉へ連れて行かれようとしたのは本当であろう。しかし見つかったのは「平家物語」でいう菖蒲谷ではなく、日神か日川のどちらかで私は日神であろうと思う。頼朝に許され、文覚に預けられた。
○1189年伊勢から熊野へ旅する。この時、父の維盛や平家人が多く隠れ住んでいる事を知る。この事を文覚に話し、二人は相談して鎌倉に謀反の無いことを示す為出家する。(妙覚となる)
○1194年鎌倉に下向して頼朝に会ったが、その目的は文覚を離れ伊勢に住むことの 許しを得ることだったと思われる。
○日川に斉藤兄弟と共に住む。しかし程なく比叡山に登り修学する。その後嵯峨奥に住む。
○1198年吉田経房の陰謀により捕らえられ斬首されたが、これは本当かどうか解らない。というのは、「吾妻鏡」にその記述がないことである。  しかし、その直後に後鳥羽天皇が院政をやりだし経房に対して六代の処分状を書かせ出家した後に死亡(1200年)している事と照らし合わせてみた場合、六代は斬首された可能性が高い。そして経房は暗殺されたのかも解らない。  それ故に、日川のお寺を守ったのは六代の子になったのだと思う。この子というのは、清重ではなく、日川で生まれた子であろう。(清重は鹿児島の建部氏の養子になっている。)
5 六代が日川を出た事の考察

そこで六代は父や平家人が多く住む伊勢の日川に来たのに何故日川を出て比叡山に登ったかと言うことですが、次のような事も考えられます。

○六代が日川に来た1194年当時、維盛は津の一身田に青雲寺を開山していたので、そこに居たか、芸濃町河内の庵に居たと考えられる。

○六代としては父の傍に居たくて日川に来たが、維盛としては、平家西走の時六代を嫡子より外しており、あまり親密な関係と思われるのを避けて少々厳しいことを言ったのだろう。そこで心機一転、比叡山に登ったが、その修学が終わった後も日川に戻らず母の住む京の近くの嵯峨に住んだ。

○所が、母(建春門院新大納言)はすでに吉田経房と結婚しており、経房は六代が傍に来たことがうとましくなってきた。

○そこで経房は六代の謀反話を作り上げ、「頼朝が会いたがっているよ」とか言って うまく騙し鎌倉に下向させた。 六代としては父にうとまれ、母とも疎外された今、ただ一人の理解者である頼朝と会えることで、心も浮き浮きと鎌倉に向かったと思う。

○しかし経房は六代を殺すことが目的だったので、頼朝に会わす前に六代を殺してしまった。もし六代が頼朝に会って謀反話など無いことがばれたら、今度は経房自身の命が危うくなるからである。

○六代を殺したことで頼朝は怒った。そしてすぐに京へ使者を走らせた。

○当時、京では内大臣通親卿と権大納言経房が実権を握っていたが、後鳥羽天皇は経房に六代処分状を書かせた上で追放し、天皇自身で院政をやり出した。(1198年)

経房は出家後の1200年に死亡し、通親卿も1202年に死亡しているのは、二人とも頼朝の指示で暗殺されたものと思う。(通親卿は文覚上人の謀反話を作り上げ佐渡へ流した罪による)。

六代としては不幸な結果となってしまったが、結果がでるためには、その原因があるはずである。 これは元もと維盛の妻の不倫に始まるのであるが、しかし、建春門院新大納言だけを責 める訳にはいかない。

建春門院新大納言の母である京極局は藤原成親の妻であったが、後白河法皇と密通 を続けた為に夫から離縁されている。 因縁は繰り返されるということである。