坂本顕一郎研究サイト    

大江家

1.大江家本家

大江家の本家は那智勝浦町湯川の二河にある。
国道42号線の湯川駅近くの信号を山側に入り、二河川に沿って約4㎞進むと、栃の木という所があり、大江家の本家がある。
二河川の一番奥の家で、山ひとつ越せば色川の南平野であり、山深い中にあるのでまさに隠れ住んだ家という感じである。
この大江家がこの近郊に点在する大江家の本家である。
大江家の伝承では、「平家落人と聞いている」「壇ノ浦の戦いに敗れて落ちてきた」という事ですが、色々調べていくとどうやらその後の承久の戦い(1221年)で敗れて落ちてきたようです。
この事は後で説明しますが、大江本家の家系は17代前まではわかっているそうですが、それ以前はわからないそうです。

2.瀬戸の宮

大江家の手前300mの所に亀山、西、松場家があり、その前を通って奥へ約100m行くと川沿いに瀬戸の宮がある。
大江家が古来よりお祀りしてきた神社である。
石垣で囲まれた5m四方の広さの所に一段高くなった祭壇があり、4本の柱が立っている。祠もなく、御神体もない神社である。

img_01

3.金剛寺

瀬戸の宮へ行く手前に一段高くなった台地があり、今は棕櫚や柿の木が生えているが、以前金剛院というお寺があり、大江家の菩提寺であった。
今は民家の多くある国道近くに移転し、寺名も金剛寺となっている。
創建はいつかわからないがとにかく古くからあったそうだ。

この金剛寺であるが、平維盛の子盛広、盛安が生まれたのはこのお寺ではないかと私は推察している。
理由を挙げると、

(1)本居宣長の末孫の大平泰氏の研究では、盛広、盛安は奈良県川上村の金剛寺で生まれたとしている。
しかし、金剛寺について当地の教育委員会で色々調べてもらったが、川上村の金剛寺は平維盛の生きた時代にあったことは間違いないが、維盛が関係したという伝承、書き物は一切ないという事です。

(2)平維盛は1184年~1188年の間のいずれかの年代に高野山で智覚上人、西行法師から真言密教を修得しており、その時代に盛広(1187年)盛安(1189年)が生まれているが、高野山と川上村では少し離れすぎている。
もし、本当に川上村の金剛寺で生まれたのなら妊娠した妻(平景清の異母妹お妙)を金剛寺に行かせて産ませたという事になる。

(3)維盛は色川で1184年から1190年頃までいたという色川文書があり、盛広、盛安が生まれたのはその間である。

(4)二河の金剛寺の近くの南平野桧曽原には、的場家が1700年頃まで存在し、色川七人の頭(かしら)の内の一人であった。
維盛が色川入りするとき、まず的場家に立ち寄ったとの伝承がある。
その桧曽原からは後に維盛の供養塔二基が掘り出されている。
この事から桧曽原は維盛と深い関係にある土地だといえる。

(5)金剛寺という寺名も維盛とは関係が深い。
すなわち、維盛が高野山で修行したのは金剛峯寺であると考えられ、修行が終了した時、金剛峯寺の座主であった理賢より成覚院殿岩間浄圓入道という法名を頂いている。
それは1186年前後の年である。
以上の事を総合的に判断すると、大平泰氏は二河の奥に金剛寺というお寺があるのを知らず「川上の金剛寺」と書いてある書を見て、川上村の金剛寺と判断したのではないか。
二河の金剛寺はたしかに二河川の川上にある。

この事から維盛は、口色川、大野藤綱の要害と住み分けながら、桧曽原にも住み、妻の出産の折には栃の木の庵(金剛院の前身)に行かせて出産させたのでなないかと思う。
その庵を数十年後に落ちてきた大江家がお寺としたとも考えられる。
このように考えると、桧曽原、栃の木はロマンのあふれる土地である。

4.大江家分家

南平野の桧曽原に大江家の分家があったが、今は少し上の大原という所に替わっている。
潮崎辰雄氏の家である。
現在11代目ということですが、一番古い墓石に「大江別家、開山孫三郎、享保8年(1723年)」と書かれていることから1700年頃に分家して桧曽原へ来たものと思われます。
ところで、大江家の分家なのになぜ潮崎姓を名乗っているかという事ですが、辰雄氏の談では「潮崎の庄(今の潮岬)に上陸したから潮崎姓にしたと」という事です。
桧曽原には大江屋敷という立派な屋敷があり、今は尾崎和男氏が住んでいますが、以前は潮崎氏が住んでいた屋敷です。
だから、姓は潮崎でも屋敷は大江屋敷といい、大江家の分家であることに間違いはありません。

桧曽原には井鹿川が流れていますが、その川の下流側に中里という所があります。
そこにも大江家が数軒あり、二河の大江家よりの分家であると考えられます。
本家は大江恒(ひさし)氏で今は9代目ということであり、1760年頃より始まった家系になります。

栃の木の大江本家では昔、浄瑠璃をやったり、寺子屋で勉強を教えたりしたそうですが、中里の大江家でもやはり寺子屋で教えたそうです。
大江家といえば、昔は文化人として伝統ある家系であり、和泉式部や大江千里、学問の神様菅原道真を輩出しています。
その事から、この大江家にも文化、学問を好む思想が受け継がれていたのであろう。
後には毛利元就、桂小五郎も出ている。

5.星帝神社

桧曽原にある。
御神体は丸い石である。
同名の神社が以前色川の坂足という所にあったが、今は色川神社に合祀されている。

6.瑞祥庵

桧曽原にあるが、以前は井鹿川の向かいにあり、浄光庵と呼ばれていた。
このお寺は飛び火の観音様が祀られていて、湿疹、ぜんそく、火傷、腰痛によく効くといわれ、昔はお参りする人も多かった。
なかなか立派な仏様である。

7.五輪供養塔

明治4年に桧曽原の大江屋敷と瑞祥庵の間の畑より掘り出された。
という事は大江家の分家である孫三郎氏が、桧曽原に住み始めた1700年以前に埋もれたという事になります。
そこで、色川災害史を見ると、1693年に大暴風雨あり、家屋六百軒倒れるとあります。(熊野史)
色川で当時600軒倒れたとなると、ほとんどの家が倒れた、いう事になり大災害であった。
そこでの推察ですが、桧曽原に的場家があったがその家も倒れ、田や畑も流された時に、五輪の塔も倒れて埋まってしまった。
そこで的場氏は桧曽原をあきらめて他地へ出た。
その後へ孫三郎氏が来て、田畑を整備して住み着いた。
そして明治4年に孫三郎の分家の人(潮崎衛氏の先祖)が掘り出した。
この時五輪の塔の他に、刀や鎖の入った壷も一緒に出土したそうです。
この供養塔は五輪になっているが、分解してみると一番下の台座には一基が小枩(小松)と彫り込まれていて、もう一基は三位と掘りこまれている。
両方合わせれば小松三位となり、平維盛は小松三位中将であったので、維盛の供養塔という事になります。
これは的場家が建てたと見て間違いないでしょう。

img_02

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

8.家紋

大江本家は「丸に蔦」ですが、古い墓には「○に三ツ星」の紋が入っているのもある。
だから昔は大江家の代表家紋である「○に三ツ星」であったのかもしれない。
南平野の潮崎家は「○に三ツ星」である。
中里の大江家は「抱き茗荷」という事です。
いずれも大江家の家紋として考えれる家紋です。

9.大江本家の始祖は誰か

ところで、二河へ落ちてきた大江家の始祖は誰かということであるが、源平合戦の中で平家方の大江家はでてこない。
それもそのはず、大江家は昔より文化系の家系で、源頼朝に仕えた大江広元が武家の大江の始まりである。
だから、源氏に追われて落人となった大江家はいないはずである。
そこで『承久記』を見ると、承久の乱で京方として戦った人の中に2人、大江氏が出てくる。
大江能範と大江親広(ちかひろ)である。
この内能範は京方が敗戦となった時、処刑され死亡している。
次に、大江親広の方ですが、親広の親は大江広元であり、頼朝に仕えて鎌倉にいた。
親広は承久の乱の時、仕事で京へ来ていてやむなく後鳥羽天皇に味方し参戦した。
だから親子で敵味方に分かれて戦ったわけです。
そのようなわけがあったので親広は処刑されず、行方不明となっています。

そこで私は次のように推理します。
平頼盛の孫に保教(保盛の子)がおり、承久の乱に参戦し討死している。
この事から保盛の兄の保業が京を追われて船で串本の潮崎の庄(今の潮岬)に上陸した。
そして、その地名をとって潮崎姓とした。
この保業の船に大江親広もちゃっかり同乗してきたのではあるまいか。
そうだとすれば、大江家分家の潮崎辰雄氏のいう「潮崎の庄へ上陸したので潮崎姓にした」という証言とも話しは合ってくる。
ひょっとしたら大江家の先祖はその先祖を割り出す手がかりとして、分家に潮崎姓をつけさせたとも解釈できる。
更に面白い事に、大江本家の奥さんの直枝氏は勝浦温泉病院に勤めていた頃、勝浦の浦島ホテルに秋田から働きにきていた寒河江(さがえ)氏と友達になったということです。
寒河江氏といえば、大江親広の子の広時の子孫であり、恐らくは鎌倉幕府滅亡の1333年に北陸へ逃げたものと思われます。
以上を要約すると、承久の乱の時、親広は50才位であり、単身京へきて仕事をしていた。
京方として参戦したが、敗戦となり処刑されるのが嫌で(その時京では600名程処刑された)平保業の船に乗せてもらい、潮崎の庄へ来た。
一方、親広の子の広時らは鎌倉にいたが、1333年鎌倉幕府滅亡の時に秋田へ逃れた。
そして、800年近く経った時、親広の子孫同志が勝浦で知り合った。
だから断定は出来ないが、大江家の始祖は大江親広であり、二河へ落ちてきたのは1221年であるといえます。
この近郊の大江家で名を成している人も見受けられますが、大江家の先祖が築いた徳が、今も子孫達に脈々と受け継がれているものと思います。