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平知盛

1 経歴 平清盛の四男、母は二位尼時子、1152年生まれ。 官位、 従三位、新中納言。壇ノ浦の合戦の大将。 子に知章、知忠、知宗、女子がいるが、知章は一の谷の合戦で父をかばって討ち死している。

1183年、平家西走の時、京に居る源氏の人達を斬ってから行く事になり、源氏の人達が集められた。 この時、知盛は「今ここで百人千人斬ったとてどうなる、故郷では妻子らが嘆き悲しむだろう」と云ったので統領の宗盛は皆を解放した。

この時宇都宮朝綱らは涙を流して喜び平家に従軍するとまで云った。 また、壇ノ浦の戦いの時、教経が源氏の兵を次々と弓矢で射殺しているのを見て「罪深いことをするな、大した兵でもないのに」と云っている。

この様に、知盛は心やさしい人だったのであろう。 平維盛は、平景清に知盛を救出する様に命じ、景清は知盛とその子の知宗を連れて維盛の居る高野山に戻る。 「平家物語」では鎧二領を着て海に飛び込んだとしているが、これは知盛が知宗と抱き合って飛び込んだのが、源氏の目には鎧二領と見えたのであろう。 下関には錨を担いで海に飛び込む知盛の像がある。

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2 知盛山、久昌寺

維盛に救出された知盛は維盛や重景や文覚上人らと共に護摩壇山で護摩をたき、平家の行く末を占う。(維盛由緒記、) その後伊勢へ来て久昌寺を開く。 久昌寺は、伊勢市矢持町にある。

1190年開山。久昌聞法尼が開祖。 御本尊は阿弥陀如来であり、その像は1121年、幸賢の作で国宝となっている。

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(久昌寺)左
(平知盛とその妻の墓) 右

境内には知盛やその子孫の墓がある。 また昭和26年に本堂を改修した時、数千個の写経石や短刀が出土した。

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(写経石の一部と短刀)左
(阿弥陀如来像)右
3 家系図  家系図は次のようになっている。
平知盛―武盛―知則―維弘―知弘―知次―知定―深定―知行―知員― 知時―知康―知成―知郷―知利―浄則―知純―知一―知明―知重―知信― 常盛―盛久―知忠―知足―知方―盛信―盛長―盛邦―知之―知徳

以上の様になっており姓はすべて平姓ですが、俗姓は二代目が前山、三代目が覆盆子(いちご)、四代目から六代目までは黒田、七代から十代まで山岡、十一代以降は中津となっている。

他に中瀬姓もあり分家であろう。 この前山とか覆盆子、山岡というのは近辺の地名であり、最初に隠れ住んだ地名を姓としたのであろう。 家紋は丸に揚羽蝶である。
4 一人口伝

伊勢には代々伝えられてきた伝承がある。
口伝者、角谷隆平氏
(知盛と共に脱出し能登へ逃れた平清邦の子孫、伊勢郷土史草第三十九号より)

①壇ノ浦の戦いで海に飛びこんで意識を失ったが、味方に救われ生き残った。
② 生き残った者十人ほど居たので彦島に集まった。その中に安徳天皇と清邦もいた。 ③ その日の夜陰にまぎれて三艘の船で東への潮に乗り、播磨に上陸した。
④ 内陸へ逃れた一行は、丹波山中に達し、そこから安徳天皇とその従者は北を指して行き、知盛は伊勢へ、清邦は能登をめざした。
脱出の様子は以上で、その後のことも書いているが省略する。
知盛の子孫たちの屋敷は久昌寺の川向かいにあったが、1660年の大雨の時土砂流が起き家も田も流された。この時、娘も売らなければならない程困窮したという。
矢持で多い時で50軒ほどあったが今は12軒で皆知盛一族だそうです。 矢持は周囲の高い山で囲まれているが、その山には何人かの見張りが居り、実際に源氏と戦いになった時もあったらしい。

久昌寺の前には「平知盛卿終焉の地」の看板が立ち、その横には兄の重盛が速玉大社に植えたなぎの木にならってか、なぎの木が植えられていた。

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