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よろい掛け松

那智勝浦町宇久井の建石の浜は、白菊の浜と云い、そこからは鎧掛け松のある岩山を望む事が出来る。
山が半島の様に突き出た先にその岩山があり、昔その頂には鎧掛け松と云われる松があった。

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(1)よろい掛け松

平維盛が那智沖で入水したと見せかけるため持っていた鎧をこの松に掛けたとされる。
実際にかけられたかどうかであるが、私は掛けたものと判断する。
それはこんな伝承は頭で考えてもなかなか思い付かない事であるし、元宇久井在住の泉和也氏の話では「その鎧を浜の宮の漁師が持っていた」とする伝承を古老から聞いているからである。平維盛主従がその鎧を掛けた時の様子は私の想像で、私の本「どっこい維盛生きていた」に書いているのでそれを読んで頂ければ幸いですが、さて、その鎧はどんなものであったのだろう。
平家の若大将であり、当時は平家の光源氏と云われ桜梅少将とも云われたほどの美男であったから、さぞかし華やかな鎧であったと思われる。
そこで「平家物語」を見ると
赤地に錦の直垂に萌黄の大鎧を着て栗毛の馬にまたがり金箔のあしらった鞍を馬に掛け、太刀きらびやかに・・・
と記されている。

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↑鎧掛け松のある岩山

当時は二十三歳、男でも一番美しく見える年齢であり、その美しさは絵にも画けない位であったそうです。

また副将軍薩摩守忠度は紺地に錦の直垂に絹のヒモで編んだ鎧を着て黒い馬に乗っていた。
これで見ると維盛は赤や萌黄の鎧で華やかであり、忠度のは地味であるが力強い色合いの鎧であった事が解ります。
二人共、馬・鞍・鎧・太刀に至まで目も眩いばかりの装いで見物人が多く集まったと「平家物語」では記されている。
さてこのよろいかけ松であるが、2代目といわれる松が昭和三十二年頃に枯れたという事である。
なかなか立派な松であったらしく、私の体より太い。
岩ばかりで土もあまり無い岩山の頂でこんなに太くなったとは植物の生命力におどろかされる。

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平維盛がその後逃亡しながら必死に生き継いだ執念がこの松を太くさせたのかじっと向き合っていると平維盛の墓標の様な感じで迫ってくる。

このよろいかけ松の3代目を今育成中です。たぶん誰かが植えたのであろうが岩山の手前の方と、枯れた松の左側に1本づつある。
現在高さは2本とも1米位である。

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私は友人とともに平成21年の早春にこの岩山に登り土と肥料を入れた。「育成中」の看板も掛けた。
まだ幼い木であるが今でも建石の国道から望む事が出来る。
ただ松くい虫にやられる事だけが心配である。
誰かその予防方法を知っていれば教えて欲しいものだ。

(2)道程

その鎧掛け松のある岩山へ行くには3箇所の入り口がある。
○建石の灸屋の前を入って左側への道をとり、三百米位行くと、平地にでる。そこには鎧掛け松の入り口を示す案内板が立ててある。軍馬の碑のある百米位北側である。
○狗子ノ川の信号より山側に入り、橋を渡った所で右へ進路をとる。
○大狗子トンネル西出口の海側寄りに石段があるのでそれを登る。
いずれの道をとっても案内板の所に来るがそこより磯へ向かうその山道を約百米行くと磯にでる。
よろい掛け松のある岩山へは登れない事は無いが、少々危険である。
岩山の左側の方から登るのですが2人以上で行き、先に登る人はロープを担いで登り、その端を岩に括りつけて垂らしてあげると良い。
満潮のときは渡れないので、潮の引いているときに渡る事です。

(3)白菊姫の岩

その岩山の西側には白菊姫の顔に似た岩があります。目と鼻と口がはっきりしており、髪を額の上に上げてから左へ垂らしており、正に京女そのものである。
平維盛を慕う白菊姫の情念がこの様な岩となってここに残っているのかよろい掛け松のある岩山に寄り添う様に立ち、磯の方を向いている。
白菊姫については維盛が熊野へ逃げたとの情報を得て、那智まで来るが地元の人から「維盛は入水して死んだ」と聞かされ建石の前の浜に庵を建ててよろい掛け松の見える
方向に小窓を切り、毎日香を上げ、お経をとなえて維盛の供養をしていたがそのうちに、又京へ帰って行った。この事から建石の前の浜を白菊の浜と云うのである。
さて、白菊姫の岩を見るには磯へ降りた所から、約五十米西側へ寄れば見ることが出来る。
また岩山の下の方の岩道を伝って、近くに行って見る事もできる。
暇と興味のある人はこの白菊姫に会いに行ってやって下さい。
但し、夕方に近い時間に行く方が太陽の方向で目や鼻や口がはっきりしてきます。

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(4)津市の「よろい掛け松」
津市栄町の四天王寺の境内にも「よろい掛け松」はある。
これは平景清が四天王寺を改修する際に松に鎧を掛けたとする伝承があり、松の木の傍には立派な石碑がある。

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景清が鎧を脱いで大工達を指揮している姿が浮かんでくる様だ。
平景清伝説は各地にあり、特に屋島合戦の時の水尾谷十郎とのしころ引きは有名で謡曲や浄瑠璃に取り上げられている。
この景清が維盛と共に色川にいるとき、自分の異母妹を維盛に与え生まれたのが盛広・盛安である。景清は色川で清水左衛門と名乗っており、二児を養子に迎えた関係で
盛広は清水権太郎、盛安は清水小次郎となっているのである。