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下里家

1.下里維忠について
維忠は平維盛の子である。
平維盛の近臣6人の中に平六兵衛がおり、その妹お八重も兄を頼って京に来て、兄と共に住んでいた。
お八重は二位尼(清盛の妻時子)の侍女として働いていたが、32才の時(維盛より7才年上)維盛の子を産む。
寿永2年(1183年)であり、幼名は維丸である。
しかし、平家は同年の5月に石川県倶利伽羅峠で源氏に大敗し、7月には西走が始まった。
そこで京都も安住の地ではなくなったので、六兵衛、お八重、維丸の3名は故郷の下里に帰る。
その下里へ帰っていた時、平維盛が落ちてきて、近くの市屋の上家へ一泊していたのであるが、お互いにそんな事は露知らず、会うことはなかった。
その後、お八重、維丸の二人は熊野山に隠れ住んだ(下里町史)とあるから、ひょっとしたら維盛と会っていたのかもわからない。
その隠れ住んだ場所はどこであるか不明である。
その後、六兵衛の招きによって下里村へ移り、母方の下里姓を名乗った。
維忠は下里城主となり、地域の発展のため、大いに尽くしたという。
建長5年(1253年)3月19日死亡、71才。
法名 基奥院元覚向仏禅定門
尚、下里(平)六兵衛は63才で死亡している。
(以上は下里町史)
以上の事から下里家は源平合戦の頃にはすでに存在していた事になる。
そのルーツは誰であろうか今となっては解き明かす手がかりもない。
2.下里家(現植地家)
下里家は利右衛屋として代々栄え、江戸時代には庄屋及び新宮藩の米集荷所として下里でも重きをなす家であった。
現在、植地家は植地逸紀氏であり、維盛の子、維忠より数えて何代目になるかはわからないそうである。
では下里家が今なぜ植地家となっているかという事ですが、明治の初めに姓をつけよとなった時、植地姓としたからである。
下里に住んでいて、下里姓を名乗るのに気おくれしたのであろうか。
下里姓は由緒ある姓なのでそのまま下里姓でいてほしかったものである。
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3.分家の下里家
1500年頃、下里家から三重県の桑名へ行った人がおり、その家系から桑名下里家、大垣(岐阜県)下里家、鳴海(半田市)下郷家が生まれている。
家系図で示すと次のようなる。
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この内で生年がわかっている人に信重がおり、1534年生まれとなっている。
大体の家は一代26年で代替りするので、逆算していけば、家賢は1480年生まれとなり20才で下里を出たとすれば、1500年頃となる。
○桑名下里家三代目の家昌の時(1581年)久貨丸という大船を造り、滝川一益より北条家の大老、北条陸奥守より御朱印を賜り、以降廻船問屋として栄え、桑名の豪商となっていった。
しかし、1720年頃絶家となった。
理由は船に米を満載して航海中、熊野灘で火災を起こした為といわれている。
○又、分家の下里家初代となった信重は、藤太ともいい、徳川家康に仕え、本多忠勝に従って忠功、勇名をあらわし、武州(埼玉県)岩槻城攻めの時、先陣を切り討死した。
供養塔は伊勢の朝熊山の金剛証寺にある。

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○鳴海の下郷家は千代倉屋といい、種政が始祖である。
酒造(銘酒玉の井)酒販を本業とし、豪商となる。
鳴海は東海道の宿場町として有名ですが、その中でも千代倉屋は大きく、東海道中最大の面積を持つ本陣で下郷家は670坪あり、普通の本陣の約3倍もあったといわれている。
これは、尾張の徳川家と強いつながりを持っていたためで、同家に残る「千代倉日記」には当時の繁栄振りが書かれている。
又、三代目吉親は俳句を愛し、芭蕉のスポンサーであった。
○大垣(岐阜県)の下里家
菓子業で財を築いた。
江戸時代には大垣町の総年寄、俵町の町年寄を勤めた。
このため、大垣藩からは苗字、帯刀、藩主へのお目見えを許され、大垣を代表する商人として活躍した。
又、抗瀬川の河川敷を開発して新田を作り、広大な土地を所有した。
このように、下里家を出て桑名へ行った家系から次々と豪商が出ている。
これはどういう事であろうか、いくつか考えられる事がある。
○下里家の利右衛門屋は1500年頃財を成していたので分家する人にその財を分け与えていた。
○下里家は平維盛の子孫という事で藩からも特別に扱ってくれた。
○尾張には1500年当時織田信長がおり、信長は平維盛の弟である資盛の子孫という事である。資盛は源平合戦の後、河内、伊勢に住んだ後、長男を伊勢に残し、次男、三男を連れて十津川の玉置山に入っている。(玉置山縁起、その他)
この辺の玉置家は資盛の子孫であり、織田信長も資盛の子孫である。
このような関係を桑名や尾張の人々が知っていて、お互いに引き立てあいをやったのかもしれない。
4.下里延平について(下里町史より)
色川清水家の人で、幼い時非常にわんぱくであったので下里のお寺へ行かされお経を習っていた。
当時下里家では子供がなかったので、養子に入る。
延平は下里の庄屋をつとめ、農を営むかたわら、新宮藩の命を受けて米倉庫の番人をしていた。
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下里から、天満に通う道に「歪み松」という曲がった松があった。
ここからカナギ田圃までの間は川口から打ち寄せる波で水田がよく塩害を受けていた。
ある年飢饉が起きたので、利右衛門屋の延平が藩命を待たずに人夫を督励して大堤防工事を計画した。
山石または磯石をもって約200mの間堤防を築いた。
ところがその時倉庫にあった年貢米数十俵を全部人夫に食べさせてしまった。
いよいよ明日新宮藩の役人が倉の米を受け取りに来るという晩、延平はすがりつく妻の手を振り切って夜逃げしてしまった。
この時、延平の着物の袖が切れたのであるが、この袖を下里家では最近まで大事に保管していた。
この妻は夫に代わって3年間牢に入ってきたのであるが、服役後、夫の後を継いで更に3年庄屋をつとめたので村からお礼に山林いくらかを贈られたという。
さて、この延平氏は大垣の下里家を頼って行ったのだろう。
大垣下里家の分家である久瀬川下里家の三代目となっている。
1835年11月死亡で法名は「竹誉延平居士」である。
通称与六郎、又準之丞とあるのは延平の幼名であろうかという事である。
延平は幼年時、利右衛門屋の下里家に養子に入ったという事であるが、はたして、清水家の誰であったのだろう。
そこで、清水家の家系図を見ると24代喜盛の弟に男子とだけ書かれている人がいる。
この家系図の中で男子とだけ書かれている男の人はこの人だけで、養子に行ったので書かなかったのであろうか。
但し、( )して盛之輔とだけ書かれている。
この人が延平氏だとすれば盛之輔は1790年頃の生まれと推測されるから、延平氏は45才位で死亡している事になる。
5.下里家を訪ねて(下里町史より)
時代は不詳であるが、廻船問屋の人がとあるから1600年~1700年の間だと思う。
桑名の廻船問屋の下里家では祖先をまつる心、切なるものがあって、祖先の遺言をたよりに男衆3人を下里へやった。
その時庄屋をしていた利右衛門屋の下里家はこの3人を疑って、この家は死に絶えたといって男衆を返してしまった。
しかし、あきらめ切れない下里家では更にしっかりした男衆2人を選んで、下里へつかわした。
今度は丁寧な図面に利右衛門屋の場所、位置まで書いた地図まで持たせた。
この時、利右衛門屋の人々は、又、前の庄屋の家は死に絶えてしまったと嘘をいうと、その2人は庭の隅にビャクシン(いぶき)を植えている家だという。
そこで、これはいよいよたかりであろうと利右衛門屋では妻をつかわして、かくと告げ、宵から朝までかかってこのビャクシン木を切って縁の下に隠した。
かくして2人は図面をみながら「確かにこの家だかなあ」とこぼしながら去ってしまった。
この事から推測すると、桑名の下里家の廻船問屋が破産していた事を知っていた利右衛門屋は金を無心にきたと思い、追い返したとも解釈できる。
そうだとすると、米を満載して熊野灘を航行中に火災を起こして破産した1720年頃の事と思われる。
さて、話しはここで終らない。
今度は大垣の下里家に生まれた、下里ひさという人物の登場である。
ひさは、父母兄弟に死に別れて世の無常を感じ、29才の時四国巡礼の旅に出た。
その途中で下里の利右衛門屋も訪ねようと祖先の位牌、戸籍謄本、その他重要書類を持って家を出た。
女の一人旅を憂い、木ノ本(熊野市)あたりで髪を落して尼の姿になった。
市屋を過ぎ、下里の宮の前に来ると、下里神社という名があるので涙を流して喜んだ。
お寺で中村三樹氏を訪ね、とうとう目指す利右衛門屋に連れて行ってもらった。
先祖様の家を訪ねあてて嬉し泣きに泣いたという。
そして、朝は必ず祖先のお墓参りをし、利右衛門屋の人が仕事に出た後で、家の掃除や仏壇の掃除、水汲みなどした。
その内、お寺の和尚さんが病気になったので、寺へ手伝いに行き、利右衛門屋の人がお寺へ用事で来ると、本家の人が来たといって喜ばれたという。
このようにして約1ヶ月滞在した後、止めるのも聞かないで、又、四国巡礼の旅に出た。
森浦でも泣き崩れて見た目もいたわしいほどで、行っては見返り、行っては見返りしながら遠ざかっていった。
行く先々で、便りをくれていたがその後、桑名へも戻らなかったとういう事であるが、その後、下里の上田幸一氏(故人)の調査ではひささんは小豆島で結婚していたという事である。
ひささんは心優しい人であるから、夫にもよく仕え、幸せな家庭をもっていたのだろう。
神はひささんを見捨ててなかったのである。
尚、ひささんが下里へ来たのは大正6年であり龍蔵寺へ10円寄付している。
6.家紋
下里、利右衛門屋の家紋は「五本骨の日の丸扇」である。
明治時代の紋付にはこの紋が付けられているという。
このような高貴な家紋を使う家はめずらしいが、しかし、この紋は平家に無縁の紋ではない。
○平維盛が晩年に住んだ三重県芸濃町の成覚寺の紋は、利右衛門屋と同じ「五本骨の日の丸扇」である。
○芸濃町の錫杖岳の雨乞い神事では、落合家(平維盛の子孫)の黒揚羽の大幟が先頭に立ち、続いて成覚寺の五本骨の日の丸扇の大幟が続き、雨乞いの神事が行われたと記されている。(芸濃町史上巻)
このように、平家の子孫に当たる家系で「日の丸扇」の紋がなぜ使用されているのであろうか。
私はこれは源平合戦の最中の四国、屋島の戦いでの「日の丸扇」に関係があると思う。
年配の方なら小学校の教科書で読んだことがあると思うが、
○平家軍より一艘の舟が進み出て、その竿の先には「日の丸扇」がくくられていた。
○舟首には玉虫という美人が座り、中央には初老の男が踊りながら「この扇を射よ」とはやしたてる。
○源氏軍より浅利与一が進み出て、矢で扇を見事に打ち落とし、扇は天高く舞い上がり、やがて夕焼けに染まる海面に落ちていった。
この一幅の絵のような場面を思い出すが、この事から「日の丸扇」が平家の象徴として使われだしたのではないでしょうか。
さて、桑名や大垣、鳴海の下里家の家紋はどうかというと、すべて、丸に揚羽蝶だそうである。
この近郊でこの家紋を使用しているのは色川の坂足出身で、今、本宮の栗垣内に住んでいる坂足家です。
色川の清水家や清水町上湯川の小松家(維盛の子兼盛の子孫)も形は違うが、やはり蝶の家紋で、蝶は平家の代表的な家紋という事です。
7.下里城跡
平維盛の子維忠が住んだ下里城跡は海に近い山の頂上にあり、そこからの展望はまた格別である。
太平洋はもちろん下里の町、太田の村まで見渡す事が出来るし、維盛がこの地へ落ちて来て最初に一夜の宿を乞うた上家(この一夜からここは市屋という地名になった)や維盛お手植えの椎の巨木も見る事が出来る。
又、下里延平が郷民のために築いた堤防も東の方向に在り、海からの波を防いでくれ、田は稔りの秋となり黄金の波がうっている。
又、下里城跡は今、地元の篤志家によって公園として整備されつつある。
維忠や延平さんやその妻の霊はこの平和な町並みを眺めながら、下里の空をさわやかな風となって吹き渡っているのであろう。