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与三兵衞重景

重景は景康の子である。
父、景康は平重盛に仕えていたが、平治の乱で重盛が悪源太(源義平)と戦った際、重盛をかばって悪源太に殺された(1159年、平家物語に詳しい)
その時、重景はまだ2才であったので、重盛に育てられた。
重盛は景康の恩に報いる為、重盛の重という字を与え、景康の景をとって重景と命名した。
維盛は、重景と同じ年であり、よく重景と遊んだ。
維盛の弟の資盛はわんぱくでありおとなしい。
維盛とは反りが合わなかった様である。
重盛は42才で死んだのであるが、その死の床にわざわざ重景を呼び
「維盛の生涯の友で居てやってくれ」と頼んだという。
重景は熟慮実行型の人で、維盛の第一の家来であった。
それは源義経の家来である弁慶と比較しても決して劣るものではない。勇気もある。
維盛が色川潜伏中に田辺の別当湛増が差し向けた刺客に襲われた時も追いかけて切り捨てている。
維盛がその生涯を全うできたのも、重景が居たからといっても過言ではない。
維盛主従は色川に数年間居た後、龍神の小森谷に移り、ここで1~2年居た後、清水町上湯川に移った。
この時、主従3名は改名している。
維盛・・・小松弥助
与三兵衛重景・・・宅田弥左衛門
石童丸(実は安徳天皇の事である)・・・湯川金次
この時、すでに重景は宅田弥左衛門としているのは、下市の宅田家に情報集めに立ち寄りその家のお里と恋仲になり、結婚状態になっていたからだろう。
重景は小森谷に住む頃から、野迫川の方より、下市まで足を伸ばし源氏の情報収集や物資の購入に行っている事が、浜光治氏の書いた、維盛関係の本にも記されている。
なぜ、下市まで行ったかという事であるが、・下市はその頃、吉野杉の切り出しで大変賑わっており、大阪の津と云われた位であった。情報が集まりやすい。
・野迫川にも多くの平家の落人が住んでいたが、その人達により下市に平家の旧臣の宅田弥左衛門氏が居る事を知らされたのだろう。
宅田弥左衛門は平家の旧臣である。
平重盛に可愛がられていたが、ふとした失策から野に下ることになり、下市で
吉野杉から箸、三方などを作って売り生活していた。
重景が宅田家へ出入りしている内にお里と恋仲になったのも、自然な成り行きである。
そして、熊野でおぼえた”なれ寿司”の作り方をお里に教え、二人で寿し屋を開業した(1193年頃)その頃、下市は大峰山行者の街道筋でもあり、賑わっていたので、店は大繁盛した。
ところが、重景が宅田弥左衛門となり、家系を継いだ事により宅田家に居た権太は面白くない。
少々のいざこざでが生じたのであろう。
それが、浄瑠璃となり「つるべのすしや」として戯曲化されたと思われる。
重景とお里の間に八重という女の子が出来ている。
では、なぜ「弥助ずし」という店名にしたかという事であるが、重景は主の維盛の別名「弥助」を店名にして維盛の名を永久に残そうと考えたのであろう。
宅田家は現代49代目だという。
当主は今でも宅田弥左衛門を受け継いでいる。
重景の積んだ徳は偉大なものであるから、つるべずし「弥助」も益々繁盛していく事だろう。
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↑つるべ鮨「弥助」の玄関

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↑仙洞御所より拝領の招牌と献上の鮨桶
参考
・平家物語
・平家の秘蝶維盛(浜光治著)