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光福寺

熊野市飛鳥町神山には光福寺がある。
平維盛が開いたお寺である。

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(1)建立年代及びその目的

1184年(三重県の地名日本地名大系、平凡社)
1186年(歴史研究家、大平泰 氏)
右の様な二説がある。

尚、飛鳥町の旧家である倉谷家には一時平維盛を匿ったとする伝承があるのでその光福寺が出来るまでの間、倉谷家に世話になったのかもしれない。
建立の目的ですが、維盛は屋島脱出時、安徳天皇を連れ出していた。
「平家物語」その他の書には石童丸同行と書かれているが、実は安徳天皇の事である。
これは平維盛の流言に世間も平家物語の作者もまんまと騙されていた訳ですが、この事については「平維盛の真実」で述べています。
従って維盛は安徳天皇の行宮がどうしても必要であったので光福寺を建てた訳です。
大平泰氏の書には次の如く書かれています。
・・・安徳帝はその行宮である光福寺に宿泊されていたが維盛の妻(建春門院新大納言)と不義密通していた藤原経房の逆恨みにより維盛と安徳帝の所在が暴露されそうになった。しかし京に居る藤原俊成の急報により辛うじて難を逃れ、1185年に建てられていた。維盛の草庵である仕玉庵(津市芸濃町)に停泊され1194年藤原景清により
、妙雲尼(栃木県塩原)のものへと連れて行った・・・。
以上の事からその期間は解らないが維盛は安徳天皇と共に光福寺に居た事は確かである。

(2)建立の場所

現在の光福寺より北側約500メートルの山中にあった。
近くには旧街道があり昔は20軒位の家があった。
建物の大きさは、三間の四面、割木作り、仏殿、客殿と大門があった。(光福寺前住職・秋田氏)
更にそこより約五百米西側に観音滝があり、その小堂には維盛の守本尊として、一寸八分の閣浮壇金の十一面観音像が祀られてあった。(これは兜に付ける物)
しかしこれは1670年頃、盗難にあい、それに代わるものとして石仏を安置していたが、これも今は無くなっている。
この観音像を守ってきたのは地元の旧家倉谷家である。
又、その光福寺に居る平維盛や安徳天皇の見張りをしていたのは次の人々である。(地元の伝承より)

■五郷町 座の崩の山中・・・兵庫の守
■美女平(光福寺の側)・・・乙御前
■菖蒲平 (光福寺の南側)・・・菖蒲御前

 

その内、兵庫の守、乙御前については誰だか解らないそうです。
菖蒲御前については平維盛の妻である建春門院新大納言が後年菖蒲御前と称したとあり(平家物語)、彼女と思われるかもしれませんが彼女は維盛と別れた後、藤原(吉田)経房と結婚しており、(尊卑分派)経房が死亡する1200年まで一緒に居たはずですから、彼女とは考えられません。
又、光福時には平維盛の位牌と並んで「菖蒲院華屋妙蓮大姉」の位牌がありますが、これも色川での妻であったお妙ではなかろうかと云われていますが実際の所解らないのが実情です。

(3)寺名について

今は光福寺ですが、昔は興福寺でした。境内に「神之山御所」の石碑がありますが、これにも宝鏡山興福寺と彫り込まれています。
源平合戦の時、平家は戦火で奈良市の興福寺を焼いていますので平維盛はこのお詫びとして興福寺を建てたといわれています。尚、上記の「神之山御所」の石碑ですがこの文字が彫り込まれたのは後南朝時代の最後の王である尊雅王が、この寺で1458年死亡して以降でありそれまでは文字は無かった。
高さ1米位、幅30cm位の角柱であるが、これは光福寺が最初の地にあった時からのものであり、平維盛は恐らく平清盛の供養の為に寺庭に立ててあったものと考えられています。いつ頃、現在の地へ移されたかについては定かではありませんが1688年に寺が焼失した時は現地にあったとの事からそれ以前に移転していたものと思われます。その寺が焼失したとき、寺名を興福寺から光福寺に変えたわけです。(秋田前住職談)
変えた理由ですが、それまでは観音菩薩であったがその御本尊が焼失してしまい、阿弥陀如来像に変えたので、寺名も光福寺に変えたとの事です。しかし秋田前住職の時代から本尊は「千手千眼十一面観音像」になっています。
尚、火災での焼失物は次の通り、img_03
□二俣の竹の団扇
□青葉の笛(横笛)
□開かずの箱
□その他、画像、香炉

 

 

 

 

 

 

 

 

以上の内、二俣の竹の団扇と青葉の笛は平維盛が所持していたもので、色川の清水家は維盛や尊雅王の供養を光福寺でやっているのでその時に奉納したものだと云われています。

(4)歴代住職

□大平泰氏の研究では次の様になっている。
初代―平維盛
二代―与三兵衛重景(法光院宝鈴心法師)
重景は維盛第一の家来である。
□秋田前住職説では次の様になっている。
初代―雲外玄ざく和尚
この人は信雅王の子孫から依頼された山梨県深向院の住職で元和5年(1619年)に来ている。
信雅王は光福寺で死亡した尊雅王の子であり1453年に生まれている。(尊雅王23歳の時の子)
尚雲外和尚以前の住職については解らないという事なので、最初は維盛、次に重景としたが、二人ともそのお寺には定住していない事から、
その後は家来達や地元の人で守り継がれて来たのであろうという事です。

(5)尊雅王について

光福寺には尊雅王霊殿がある。
これは尊雅王がこのお寺で死亡しているからです。
話はこうである。
当時、天皇の即位には三種の神器の授受をもってその証とした。
尊雅王はその内の神璽(天皇の御印)を持っていた為に足利幕府の北軍に襲われ戦いとなる。
尊雅王の南軍は敗れ大和の山奥に逃げる。飛鳥町より少し北に五郷町という町がある。
そこの高尾谷の山上付近に座崩(ざのこえ)という所があり、以前より城塞が築かれていたが、王らはそこに隠れ住む。
しかし、北軍の赤松浪人に見つかり戦いとなる。楠正理一族や、和田氏郎一族らが、尊雅王を守ってよく戦ったが、神璽は取り上げられ、
楠一族十三名、和田一族六十三名が討死し、尊雅王も重傷を負った。
王はここから楠理治、理康らに背負われて光福寺、まで辿り着いたが約二ヵ月後の1458年自害して果てた。

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信雅王は当時六歳であったが近露の野長瀬一族や平維盛の子孫である色川一族に守られて近露か色川に匿まわれ、
その二年後の1460年2月に4代目の王として即位式が行われている。
(富士文書)という事は天皇の証として神璽を持っていたからでありこの事からすると長禄2年8月に丹生川上社神官である小川弘光が足利幕府に差し出した神璽は偽者だと言う事になる。尚、尊雅王の妻の藤の川(局)は色川左衛門盛定の娘であるから信頼王は色川生まれの王という事であり色川清水軍は楠一族らと共に最後まで王を守って戦った。その清水家分家である清水亘氏は昭和三十年頃、光福寺にお墓を作り、その開眼供養の時、南朝関係の子孫約百五十名を集めて尊雅王と平維盛の供養法要を営んだ。熊野市大泊のロータリーの所にガソリンスタンドがあるが、清水亘氏は以前にそれをやっていた人です。また、同氏は日本愛国党総裁にまでなった人である。
平家はその栄えていた時、天皇を守ってきた北面の武士であり、平維盛の子孫である色川の清水家も後醍醐天皇や後亀山天皇、又、その孫である王たちを守って戦ってきた。その天皇崇拝の思想が清水亘氏の心底に流れていたものと思う。