坂本顕一郎研究サイト    

坂足

坂足は色川の西部地区に当たり、籠の西側にある。
一番多くの家があった昭和二十年頃は合計で二十四軒あったが、今では後呂家と下向家だけとなってしまった。 坂足に三地区あり、先ず上の道から入る地区には後呂家、芝家、久保家、坂上家、根中家、下浦家、植田家、西畑家、大畑家、山本家、渡瀬家、坂内家があり、芝家は一七〇〇年頃樫原から移ってきた家であり、久保家は近くの久保の岡から移ってきた家である。 その少し下には東家と田瀬家があり、更にその下の古座川へ抜ける道の所には、下向家が三軒並んでおり、道の下には下向家、横道家があった。 更にその下に旧坂足地区があり、そこへ行くには下向四郎宅の少し先より降りる道があり、約四十分で直柱へ通じる山道である。 そこには昔坂足家があり、平維盛が安徳天皇を連れて色川へ来たとき、天皇を隠した場所だと私は見ている。 そこは山と山に囲まれた所であり、色川の村落からは見えず、隠れ住むに適当な所である。 谷に沿って両側に田が造られ、それが直柱に近い所まで続いている。合計すると一町歩はあろうかと思われるが今は全部杉山となってしまっている。 後呂家も昔はそこにあったという事で、他に横手家もあったそうですが今は無人となってしまっている。 そこの坂足と直柱の中間あたりに昔「稚児の宮」があったが今は上の坂足地区に持ってきて祀られている。

01-1
一、 坂足家

今、本宮の横尾に住んでいる坂足家は昔、色川の坂足に住んでいたとの伝承がある。いつの時代に本宮に行ったか解からないが、坂足家が本宮で最初に住んだ栗垣内には二百位の墓石が並んでいたという事から、相当の昔に替わって行った事になる。

代々孫右衛門を名乗り、現在裕一氏で三十七代目である。
坂足家の墓地の上には安徳天皇、葛原親王、平維盛の塚が祀ってある。
家紋は平家の代表的な家紋である揚羽蝶であり、俗名に「盛」という字を使用している事から考えて名誉ある平家一門であったのだろう。
昭和五十四年に横尾に移り現在に至っている。
さて、この坂足家が色川のどこに住んでいたかといえば当然坂足の旧坂足地区という事になってくる。 そこでいつ坂足に来たかであるが、たぶん平家西走の時の一一八三年か、翌年維盛が色川に入った時、同行してきたかのどちらかであろう。
そして、維盛は「藤綱の要害」に隠れるが、まだ五歳半と幼い安徳天皇をそんな山奥に連れて行く事はできず坂足家に預けたのだろう。

それは旧坂足地区に「稚児の宮」が祀られていた事でもそう推察できる。
本宮の平治川でも八歳の天皇を匿ったとの伝承があり、そこには「若宮様」が祀られている事から色川では三年位居たという勘定になる。

そして、色川宗家(色川を拓いた人)が鎌倉に呼び出された一一九〇年に維盛は色川を出ているので、その時に平治川に居た天皇を連れて熊野市の興福寺に向かったという事だと推察できる。 そこで旧坂足地区で天皇を護った坂足家であるが、その孫右衛門には維盛は全幅の信頼を寄せていたのであろう。そうでなければ天皇を預ける訳にはいかない筈だ。また坂足家だけで護ったとは考えられない。維盛の場合五人から七人の護衛と影武者もついていたというから、天皇の場合もそれ位はつけていたであろう。地元の証言では後呂家や横手家も昔は旧坂足地区に住んでいたという事であるから、天皇を護った人であったのかも知れない。 なお、維盛が隠れ住んだ所には、鶏を飼っていたという事であるから、この坂足地区や「藤綱の要害」で鶏を飼っていた可能性がある。 現に有田川町上湯川の小松家では、小森川(旧名杉谷)から持って来た「杉谷明神」を祀っており、ご神体は石の鶏である。 鶏は人が近づけば鳴き騒ぐのでその習性を利用したのであろう。
二、「稚児の宮」と「星帝神社」

旧坂足地区には「稚児の宮」が祀られていたが、これは天皇が色川を出た後で地元の人たちが祀ったものと思われる。天皇が色川に居たのは五歳半歳から八歳までと考えられるので「稚児の宮」としたのは頷ける。 なお、坂足の西側の岩井谷に「宮の洞」という所があり昔大きな楠木が立っていたそうだが、そこに「稚児の宮」が祀られていたという伝承もあるので最初はそこにあったのかも知れない。 その後、明治の初めに色川神社に合祀されたが、昭和二十七年に取り戻してきて、今度は上の坂足地区に祀られ現在に至っている。 四角い台座が三基並んでおり、その上にそれぞれ丸い石が置かれている。その石がご神体である。 丸い石は王を表すから、日本の王といえば天皇である。間違いなく安徳天皇を祀ったものと思われる。 三基あるのは、本宮の坂足家が祀っているのと同じく葛原親王、安徳天皇、平維盛であろう。葛原親王は平家の始祖である桓武天皇の子であり、清盛から数えて十一代前の先祖という事になる。 さて、その丸い石をご神体とする神社が色川にもう一箇所ある。南平野の檜曾原である。 檜曾原には維盛が色川へ来た頃、的場家があった。 維盛が中の川から色川へ入った時、まず的場家に寄ったとの伝承があり、的場は武人だったそうだ。恐らく平家の流れをくむ人だったのだろう。その的場家でも維盛は時々世話になっていたと思われ、その檜曾原には維盛の供養塔が二基建てられている。 また、檜曾原の川べりに「星帝(ほしみかど)神社」が祀られている。帝とは天皇の事であるからこの意味は星のように輝く天皇という事になり、安徳天皇を指すものと考えられる。ご神体は丸い石である。 この様に色川の中でも坂足と檜曾原は安徳天皇と維盛にとって非常に重要な地であったと推察できる。 ではここで安徳天皇について簡単に触れておく。 すでに私の著書「平維盛の事実」を読んで下さっている人は御存知と思いますが、安徳天皇は二人居たのである。 安徳天皇は一一七八年十一月に生まれたのであるが、女の子であった。清盛はじめ平家一門は落胆し同じ日の四時間遅れで生まれた維盛と妾(平親宗の娘)の子(男子)と取り替えた。そして二年後に天皇になったのは維盛の子のほうである。 だから維盛は屋島から和平の使者として紀州へ来る時に、自分の子である安徳天皇を連れて出た。しかしまさか天皇を連れているとは云えず高野山で刈萱道心と会った際、親子とは名乗れない石堂丸にあやかり、天皇を石堂丸と為称する。だから「平家物語」で石堂丸と書かれているのは実は安徳天皇の事である。 ところで、もう一人の天皇(高倉天皇と建礼門院の子)は宇佐神宮の神官の子の公仲と取替えたので壇ノ浦に沈んだのは公仲の方である。

02-1
三、 久保家

坂足家が先ず坂足を拓いたと考えられるが、その次に坂足に来たのは、久保家である。 久保家の始祖は道清であり、維盛の子孫、清水家六代目盛忠の三男である。父の盛忠は南朝に味方して戦功を挙げたので兵衛太夫という称号を与えられている。 道清は一四一〇年死亡となっているから、一三四〇年台の生まれと推定され、坂足に来たのは一三六〇年頃と思われる。 その頃色川清水軍は南朝に味方して各地に戦いに行っていたので道清も共に戦った事と思われる。 また、新宮の堀内軍と戦った際、孤軍奮闘した槍久保さんも久保家の人であり、 南平野から井鹿(いじし)へ抜ける道筋に「鎗久保神社」が祀られている。 道清が最初に住んだのは、「久保の岡」といって下向家の上である。故下向四郎宅先の曲がり角の所より登る道があり、そこは見晴らしの良い所であるから、敵の進入を見張っていたものと考えられる。 そこには幾つかの墓があり、その中に故下向正武氏の建てた碑がある。 「平維盛の子孫、道清という武士で坂足を開いた祖である……」と彫られている。 「久保の岡」は水に不便なため、久保家は谷水のある芝家の所へ替わり、現在は籠に住んでいる。

03
四、 東家

下向家の少し上に東家がありその屋敷が残っている。 高さ三メートルから四メートルの立派な石垣が積まれ、その上は百坪位の屋敷跡である。茶畑であったが今は木も生えてきている。 武家屋敷といわれ当時は月の障りの女は家に入れなかったという事である。 一七〇一年に風狂子の書いた「熊野歩行記」に「色川の内、坂足という所に、東という家があり、維盛より七八代の系脈あり」と書かれている。当時の家系では大体二十六年で代替わりしているので、計算すると一五〇〇年頃よりある家系という事になる。 清水家からは東家が出ていないので、水口家か久保家の分家だと考えられる。 色川村史によると、江戸時代の色川七家の中に清水、水口、中次、的場、小松と並んで東家も入っているので、当時は旺盛を極めていたのだろう。 この近郊の東家はここから出ていると考えられる。
五、 下向家

始祖は清水家第十六代盛直の弟の盛近であり、別名下向右衛門となっている。 一五六〇年頃の生まれで、盛近が成人になった頃は新宮の堀内軍と戦っていた戦乱の時代である。姉二人いるが、そのうちの一人は勝山城の廊の坊の妻になっている。 兄の盛直と共に二河の上地一族を攻めたとき、盛直と共に上地家に乗り込み勝ち鬨を挙げた勇敢な青年であった。 なお、この戦いで両者に多数の死者が出たのであるが、この人達の霊を弔うために盛直の叔父にあたる賢長が出家し口色川に宝泰寺を建てた。 そんな時代であったので、盛近は清水家の近くに住みその家が清水屋敷から見て向かい側にあったので下向姓となったのであろう。 故下向正武氏の書では、「大鏡院様は下向家の先祖ではないか」「先祖は各地を転々とした後坂足に落ち着いた」となっている。大鏡院様の死亡年は一六八七年であり、下向家の話では約三百年前に坂足に来たとの事であるので、大鏡院様のある峰山に住んだ後、坂足に来たと考えられる。
六 大鏡院様

籠から樫原に向かう県道の上にある。石段を少し登るとなだらかな斜面があり、昔は芋をつくっていたそうだが今は杉山となっている。十分位登ると横道があり、これが昔の街道で樫原の子供たちがワイワイ言いながら籠小学校は通った道である。 大鏡院様はその横道にあり、石垣の上に四基の墓がある。中の二基は大きく夫婦と考えられ、夫は一六八七年、妻は一七〇四年死亡となっている。両側にあるのは弟子か子供であろう。 祭日は旧暦三月十五日で厄除けの餅ほりなどがあり、今でも続けられている。

06
七 帽子岩(坊主岩)

峰山に大きな岩が三つ突き出ているのでよく目立つ。 高さ三十メートル位のラグビーボールを立てた様な岩で、倒れて来そうな感じであるが下の岩盤でつながっているのでその心配はないそうである。 地元に伝わる伝承として、昔その帽子岩に天狗が住み着いていて、近くの農作物や果物を取って食べるので近所の人たちは大変困ったそうだ。そこで人々は弓や鉄砲で撃とうとしたが、なにせ天狗である。すぐに飛んでしまって誰も撃てなかったそうだ。その天狗は古座奥の小森川まで飛んだりしていたそうで、その飛ぶ姿を見た人もいるそうである。 これを推察すると、岩の上で見張っていた人が、急を知らせに小森川まで走ったのを、あまりにも身の軽い人だったので天狗のように見えたという事であろう。色川には各所に番屋があり見張りの人を置いていたので、帽子岩もその一つであったと思われる。

07

八 地蔵様

後呂氏宅前に道があり、少し行くと地蔵様がある。一メートル四方の立派な祠である。中には高さ五十センチ位の石仏が鎮座しており、その背中には宝暦の年号があるという事なので一七五〇年位に建てられたものと思われる。 奥番の神玉にもよく似た地蔵様が祀られているが、そこのと兄弟社であるという。奥番のには、その台座に次の文が刻まれている。 (法名、無尽宗徳居士、当地海山願主、小森川山本市衛門) 山本は谷家の旧姓で、市衛門の墓は地蔵様の後ろの山にあるが一七二六年死亡となっている。この事から坂足の地蔵様建立の少し前に亡くなった事になる。 兄弟社という事から奥番に住んでいた市衛門の弟が坂足に住んでいて、亡くなった時に祀られたのではないだろうか。 その少し向こうに樹齢三百年とも六百年ともいわれる檜の老木があり、この木が坂足のすべてを知っているのだろう。