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子孫達の戦い

南北朝時代の初期の戦いについては清水盛氏(平維盛の子孫、清水家5代)が一族郎党を引き連れて新宮の熊野法眼や足利尊氏一族の石堂義慶軍を破った戦いであるが、その概略を「色川文書」の頃で載せたのでここはその後の後南朝時代に維盛の子孫達がどの様な戦いに参加したのかを書く事にする。
(1)南北朝の分裂
足利尊氏が光明天皇を立てて京で政治をやり奈良へ追いやられた後醍醐天皇は吉野で政治をやり出した。
京方は北朝であり、吉野方を南朝と呼ぶ。しかしその分裂政治も1392年和解しその時吉野に居られた後亀山天皇は京へお帰りになった。
その時お伴をした陣の中に熊野八荘子が居り、色川清水氏や光盛(維盛の子)の子孫の高川原氏も加わっていた。
この時の和解の条件の一つに「以降の天皇については北朝・南朝から交互に立てる」という条項もあったが北朝はこれを守らず北朝側の皇子ばかりを天皇とした。
これに怒った金蔵王や南朝遺臣達は1443年御所を夜襲し神璽を奪った。
この事により北朝は神璽を取り返すべく大軍で南朝を襲い、王達を次々と殺していった。後南朝動乱の幕開けである。
(2)尊秀王・忠義王・尊雅王を守っての戦い
1454年2月尊秀王は第二代南帝の皇位につかれ征夷大将軍には弟の忠義王が就かれた。この時、尊秀王十五才忠義王九才であった。
次の年、尊雅王やその妻の藤の川の案内で那智や色川を訪れ、しばらく滞在していた。
これは藤の川(局)が色川左衛門盛定の娘であったからで藤の川は夫の尊雅王(26歳)やその弟の王達を連れての久々の里帰りであったから鼻高々の帰郷であっただろう。
那智山や色川郷中への軍勢催促状を発行しているのはこの時であろう。
そしてこの年の8月に三重県紀和町(現熊野市)大河内で挙兵した。
この戦いに参加していたのは色川一族や野長瀬、竹原、湯川、山本等の熊野八荘司や那智衆徒相賀の木ノ本氏等と思われる。
尊秀王は北山の滝川寺を行宮とし忠義王は川上村の金剛寺を行宮として共に兵力の増強に努めていた。
この時に両王にとって不幸と云うべきは、赤松家の遺臣達が両王の軍にまぎれ込んでいた事である。
赤松満祐は1414年足利将軍の義教を殺害した罪で満祐親子は幕府軍に殺され、お家断絶となっていた。
所が赤松家復興を願う遺臣達は幕府に働きかけ、幕府も南朝の王達を殺し、神璽を奪い返してくるなら願いをかなえて上げようと言う事になった。喜んだ遺臣達は腕利きの暗殺団30人を組み1456年11月に京を出た。そして南軍に近づき言葉巧みに同志として仲間に加えてほしいと哀願した。
赤松家はかつて足利幕府に矢を向けた人であり言う事に筋が通っている。南軍はすっかり信用して仲間に加える事にした。
しかし赤松遺臣達は約1年後の1457年12月2日の夜、北山・川上村の二手に分かれて一斉に両宮を襲った。尊秀王は寝巻きのまま愛刀を取り賊を切り倒していたが、狭い御座所の中だけに勢い余って大刀の切先がグサッと鴨居に食い込んだ。
そこを赤松党の岡崎・中村に切り込まれ、帝は腹と肩に致命傷を受けて息絶えた。
時に尊秀王十八才であった。
中村らは帝の首と神璽を奪って逃走したが急を聞いて駆けつけた南軍によって伯母谷で全員討ち取られ帝の首と神璽は取り戻された。
一方川上村の金剛寺の忠義王も北山御所と同時刻に上月満吉以下数十名に襲われ、忠義王は重傷を負い20日後に死亡した(生存説もある。)
一度に二王を失った南朝の遺臣達はその悲しみの余り殉死する人達も居たという。
後南朝の宰相ともいうべき楠正理は悲憤に咽びながらも幹部達を集めて協議の上、第三代南帝として尊雅王を立て1458年2月に玉璽を擁して即位式を行っている。
しかし、同年の8月には再び赤松の遺臣達は尊雅王を襲い、王は重傷を負われて飛鳥町神山の光福寺に担ぎこまれた。
この戦いは南軍の楠一族13人和田一族63人が討死する程の激しい戦いであった。
尊雅王は光福寺で傷を癒していたが、12月に又もや攻め込まれ観念した王はわが子、信雅王を妻の藤の川や野長瀬一族に頼み自害して果てた。28歳であった。
光福寺には尊雅王の墓や霊殿もある。
色川の清水氏は後に尊雅王の供養祭を盛大に行ないその際平維盛の遺品である青葉の笛や二俣の竹の扇をお寺に奉納した。
尚、尊雅王が自害した時妻の藤の川は近くの滑川に飛び込んで死んだとの伝承があるがこれは敵を欺く為の策であろうと思われる。
(3)信雅王を守っての戦い
信雅王は中辺路や色川で育てられたので熊野宮とも云うが幕府はその存在さえ知らなかった様である。
1460年2月に第4代南帝として即位式を行なっているがその時はまだ8歳であった。
この様に色川や野長瀬らの熊野の豪族達は北朝の幕府に断固として屈せず幼い信雅王を南帝にしたのは何よりも神璽を持って居たからであり、「神器の在る処こそ正統の天子」と説く、北畠親房の思想が生きていた訳である。
この事から云えば1458年に吉野の小川弘光が幕府に差し出した神璽は偽者だと云える。
さて信雅王は色川のどこに隠れ住んだのであろうか。
私は色川の中の川ではないかと思う。中の川には要害の森と言う山があるがその頂上附近に屋敷跡があり高貴な人が住んだとされる伝承もある。
また、その近くには殿田の墓というまだ解明されていない墓もある。
その要害の森に住んだと考えられるのは信雅王の父の尊雅王が住んだのは口の殿といって、五郷・飛鳥・神上・育生辺りを云い殿という字を使っている。
又、信雅王ではないが忠義王が牟婁郡中ノ川に住んだとの郷土史家の説もあるが、忠義王は川上村で死んでおり信雅王と混同しているのではないかと思われる。尚地元の人の伝承ではその中ノ川にニシヤオと云って荷物(食料)を運ぶ尼さんとジャシャオ(状尾)と云って手紙を運ぶ人が居たという事である。この様な事から私は信雅王ら住んだのは色川の中ノ川ではなかったかと推測する。
さて信雅王は熊野地方に隠れ住み時節到来を待ち望んでいたが、1467年に応仁の乱が始まった。
これは将軍義政が弟の義視を養子にしていたのであるがその後妻の富子が義尚を生んだ為将軍の座をめぐりお家騒動が始まったのである。
幕府を本陣とする細川勝元(東軍)と山名宗全の西軍は激しい戦いを展開・南軍はこの時とばかりに信雅王を奉じて上洛し五辻通大宮で山名宗全に迎えられた。
御所は北野の松梅院に置かれ、ここを西陣と呼んだ事から京織物の名が西陣織りと云われる様になった。
この応仁の乱は10年間続き、両軍の主将が次々と討死してゆくと諸将は戦いに飽きて勝手に帰国してしまう人も続出、1477年、和解により戦いは治まった。
もしこの戦いで西軍が勝利に終わったら南北朝合一時の約定の「両統交替」が実現していただろうし色川出身の信雅王がいずれ天皇の皇位についていただろう。
(4)結び
ともあれこの様に南帝の王達が竹原や野長瀬、色川一族に守られながら最後まで幕府に立ち向かったのは神璽を持っていたからだと云える。
郷土史家の井戸弘氏はその著の中で「約定を守らぬ幕府は邪悪な覇者であり北朝はその操り人形でしかない。天下に正義を貫き通して、万民の為に泰平を開かんと日夜苦労されている南帝に屍を戦場にさらすのが臣たる者の努めであり大義の道である。
その道を貫き百余年の長きに渡り足利幕府に敢然と立ち向かった郷土の正義感在る楠、色川、野長瀬、竹原等の一族達は郷土の誇りであり、次の世に永く伝えていかなければならない」と結んでいる。
この様に平維盛の子孫である色川郷民は南北朝時代のはじめから終わりまで天皇や王を守ってただ正義のために戦い通したのである。
これはその平家が栄えた平安時代、時の天皇である後白河法皇や高倉天皇を守って戦い抜いた思想が、平維盛を通じて色川郷民の血流として受け継がれていた証拠であると云える。

新宮堀内軍との戦い
(1)浜の宮勝山城の攻略
天正の頃新宮には堀内氏が居た。
いつ頃から新宮に住み着いたのかは定かではないが氏虎(氏善の父)の時、住居を佐野に移した。
これは当時としては賢い策で三輪崎鍛冶をひざ元に置く事は兵器の調達に便利であった。
氏虎の子、氏善(一説には弟)は1578年長嶋城を落としてほぼ奥熊野を平定した。
1580年には新宮対岸の北桧杖城と浅里城を落としている。
北桧杖城は荘司氏の居城であったが前もってスパイの女中を送り込み、その女中が刀の鞘の中へ塩を入れており、いざ刀を抜こうとすると錆で抜けなかったと言う誠に卑怯な手を使ったものである。(この頃荘司準治氏談)
浅里城の時はどうかと云うと、
「貴殿は立派な刀をお持ちだと聞いていますが、一度それを見せて下され」という使いが来た。
浅里家にはその昔、平家の弓の名手であった板額御前が1201年、源氏との戦いで負傷し、浅利余一の妻となりその孫の実が浅里城主になった事などで立派な刀などがあった事はうなづける。
堀内氏の申し出に対し、浅里城主(尾崎氏)は丁重にお断りした所、すぐ様兵を送り込んできた。
堀内軍は最初三百人の兵で川原の方から乗り込んで来たので浅里城の兵は坂道に竹の皮を敷いて滑る様にし、竹槍で応戦していた所山越えで500人の兵が乗り込んで来たのであえなく降参となった。
堀内氏善の次の目標は浜の宮の勝山城である。
勝山城は那智山廊の坊の居城で平清盛の弟の頼盛の子孫が養子に入った関係で平家系統である。
一方、勝山城の対山の藤倉城は別当系で源氏である。
実方院と云われ那智山では廊の坊と二大勢力であった。
氏善は実方院に自分の子道慶を養子として送り込み、一方色川の清水盛直は妹を廊の坊(重盛)の嫁に入れていた。
氏善の勝山城攻めは、1581年2月から始まった。
古座の高川原氏も平維盛の子孫であり、平家であるので三十隻の船を出し応援に駆けつけた。
色川の清水軍は4月29日、藤倉城に火をかけ、その混乱の中で勝山城になだれ込んだ。
しかし、そのどさくさに紛れて堀内のスパイも紛れ込んでいたのである。
その夜、勝山城に火をかけられ、遂に勝山城は落ちた。
廊の坊夫婦は二才の女の子を抱いて、湯川の二河に逃げたが、次の日堀内の手下の者に見つかり斬られて死んだ。
(2)色川、清水軍との戦い
勝山城が落ちると今度は色川を攻めてくる事は解っていた。
色川側は女といわず子供と言わず全村民結束して堀内軍に当たる覚悟を決めていた。
勝山城が落ちた同じ年であるから、1581年の秋ごろだと思われる。
氏善は米良・実方院へ養子にやった道慶を道案内として平野側と太田側の二手に分かれて攻めてきた。その兵約800名、本隊は500名で那智山から妙法山を経て平野へ降りる街道を通って来た事と思う。分隊は約300名で南大居から中ノ川、長井、西中ノ川
へと続く平野街道という峰道を通って熊瀬川から口色川へ入る作戦であったのであろう。
本隊を迎え撃ったのは平野から小阪・口色川・大野・田垣内・樫原の色川・清水家本隊であり、堀内分隊を迎え撃ったのは奥番・小森川・田川・西赤木・直柱・高野・西中ノ川、小匠・熊瀬川の兵であったと想像される。
分隊長である高野の下村・奥番の坂本は平野街道の途中である西中ノ川の平瀬で戦う作戦を立てた。
平瀬の対岸に「牛の背中」といって、人馬一頭づつしか通れない崖の峰道がある。
太田川と小茂谷に挟まれた所である。そこに堀内軍を誘い出した。
するとそこには仕掛けがしてあって勢いよく走り込んできた人馬が網に足を取られて崖から転落し太田川や小茂谷に真っ逆様に落ちていった。
そこで十名近くの兵を殺したと思う。
ようやく「牛の背中」を渡り終えた堀内軍は平瀬の川を渡り出した。
それを狙って下村・坂本隊は弓矢の乱射である。
矢が当たって川を流れていく者、矢が刺さって暴れる馬から振り落とされて川に落ちる者、平瀬の川は正に修羅場となった。
しかし堀内軍は大軍である。川を渡りだしたので、下村・坂本軍は一旦後ろの山へ撤退した。
山の中腹に陣取り、斜面を駆け上がってくる堀内軍に向かって矢を浴びせた。
上からの矢は勢いがつく。堀内軍はここでも多くの死者を出し、とうとう退散していった。
平瀬には「勝者谷」という谷がある。
私の家のあった横の谷で坂本家の持ち山であった。ここで勝利したので「勝者谷」という名がついたものと思う。
さて、南平野から口色川に入った堀内の本隊はどうであっただろう。清水軍隊長の清水盛直は清水家の館の南側の山上に鳴滝城を築き、これを迎え撃った。この山は南と西側は坂が険しく、東側の笠松から入るしか無い。堀内軍は笠松から攻め込もうとした。しかし清水軍もその事は解っていたのでその道筋に何重にも砦を築いた。
丸太を組んだ櫓の上から矢が雨の様に降って来る。
攻め倦んだ堀内軍は南と西側から登ろうとした。
するとそれを待っていたかの様に大きな石が一斉に転がり出した。
多くの死者を出した堀内軍は夕方になっていた事もあり退散していった。この様にしてその年の戦いは清水軍の勝利に終わった。
しかし堀内氏善はこれであきらめる人ではない。清水盛直は田垣内の後の山(今は城山という)の山頂に鎌が峯城を築いた。
そこは今の県道から約二百米も高い所で、水元神社の少し東側の屋根に添って登る道があったが今は茂っており道も無い。
その山頂と一段低くなった所の二カ所に平地があり、五棟程の建物が建っていた。(寛文記)
城と言っても一般的な威容を誇る様な建物ではなく、色川村民を一時的に収容するための長屋の様な大きな建物であったと思われる。
そこへ村民全員を避難させた後、清水盛直は堀内へ使いを出した。
「私達は先来の戦いに疲れてもう戦う気力もありません。つきましては和平の話し合いの場を持ちたいので一度、おいで下さい」
という内容であった。
喜んだ氏善はこの時とばかりに尾鷲以西の自分の配下であった武士を集め、約1千人の総勢で攻め込んできた。
総大将は氏善の長男の新十郎行朝に替わっていた。平野から攻め入ったが来て見るとどの家もこの家もモヌケの空であった。
堀内軍は民家に一軒一軒火を付けながら進んできた。口色川へ着いた時はもう夕方になっていたのでその夜は大野の「二つ石坂」の森で寝る事にした。もちろん見張りの者を周囲に配した。その夜である。
突然、鎌が峯城の方向から大きな太鼓の音が鳴り響いた。
と同時に屈強の若者、約100人程が一斉に堀内軍に切り込んだ。
暗いのと、地の理に詳しくない為、堀内軍は右往左往同士討ちまで始める事となった。
堀内軍は寄せ集めの兵である為、お互い顔もはっきり知らないのでこんな事になったのであろう。
鎌が峯城のある城山へ攻め登ろうとした堀内軍は上から大きな石を転がされて逃げ惑う。
石を転がす役は初老の男達の役目であったのであろう。
大きな石は丸太を梃子にして転がしたそうだ。
やがてあっちの山でも、こっちの山でも松明の火が揺れ始めた。これは婦人達の役目である。
どうしたかと云うと長い縄に松明を等間隔にくくりつけその両端を持って右へ左へ振ったのである。
松明何万本も作ったという事からそんな縄を大勢で引っ張ったのだろう。
「すわ清水軍は援軍を頼んでいたか」とあわて出し、とうとう逃げ帰ったという事である。
この時の大将、新十郎は逃げ惑って道の傍らに倒れたのを太田の和田氏が助けに入ったのであやうく難をのがれた。
この事から太田や南大居の人達は堀内軍にすでに滅ぼされて加勢させられていたのだろう。
この戦いも色川清水軍の大勝利に終り、その戦勝品である。鎧・兜・刀・槍・弓矢・馬など多くを得たという。
この戦いは正に当時の大将・清水盛直の勇気と作戦及び色川村民・老若男女一致団結して戦った勝利だと云える。
これ以降、堀内軍は色川を攻める事は無かった。
戦場となった大野の「二つ石坂」には多くの死者を出した。
堀内軍の霊を弔う為「花折れ地蔵」が祀られている。
花折れとは、そこを通る人は花を折ってそこに供え霊を慰めよという事である。
さて、この戦いで清水軍は松明作戦を用いた。
この色川一族は平維盛の子孫であるが、その平維盛が1183年5月に石川県倶利伽羅谷の合戦で源義仲の松明作戦で大敗し、平家西走の引き金となっている。
この戦いは平家大将平維盛、源氏は義仲である。義仲は近所の農家から牛をかり集め、その角に火の着いた松明を括り付け、一斉に放した。
牛は驚き、走り廻る、それを見て平家はこの夜中に大軍が押し寄せて来ると勘違いして倶利伽羅谷へ逃げその谷は平家の死体で埋ったと言う。
この戦いは「火牛の戦い」というが、相手を惑わすうまい作戦であった。
その事を色川の人は知っていたのであろうか。
ひょっとしたら天国から平維盛が指図したのかもしれない。
それは奇しくも平維盛があの「火牛の戦い」で大敗した後、ちょうど四百年目のこの堀内軍との戦いであった。

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↑火牛の像(倶利伽羅峠:石川県)
(3)朝鮮出兵
この様な戦さが新宮の堀内との間にあった関係で数年後(1590年)豊臣秀吉の朝鮮征伐の出兵の時、色川より36人の兵を出したが堀内軍の指揮下には入らず、津の藤堂高虎の傘下に入った。
色川清水としては意地を通した訳だ。
尚、その時、秀吉より船百隻作れと指示があり、新宮の川原でそれを作り更に一隻色川兵用として作っている。
この時、清水兵部盛直は高齢であったので名代として色川三九郎が組頭となって朝鮮出兵していった。