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小松家

小松家は平維盛の子、兼盛の家系である。

兼盛は維盛が屋島脱出後に最初にもうけた子であり、1185年12月頃に龍神村小森谷(旧名杉谷)で生まれているので、同年頃は小森谷に住んでいる事になる。

小森谷には維盛の屋敷跡があり、平景清は妹(富貴か?)を与えて兼盛が生まれている。

しかし、維盛は小森谷では永く住まなかったようで、1178年には盛広を1189年には盛安を共に那智勝浦町色川でもうけている。

又、色川近くの西中ノ川か古座で1190年頃に光盛を出生させている。

いつの頃からかわからないが、維盛は小森谷近くの清水町上湯川(現有田川町)に住み、兼盛に小松姓を与え、維盛は小松弥助と改名して小松家初代となっている。img_02

1.小松家家系図

【家系図】

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備考

兼盛の妻は平頼盛の子保盛の娘

盛次(落合家祖)の妻は中院家通方の娘

兼盛は小松家系譜では1190年生まれとなっているが、これでは3代目、4代目の出生年と合わないので、もっと早く生まれており、1185年12月頃が正しいと思われる。

兼盛の官位は正五位上であったが承久の乱に関与して退官。

尚、兼盛の弟の右衛門の家系図はない。

又、上湯川にも右衛門の子孫が存在しないので、私の推測ですが、十津川の五百瀬(芋瀬)の小松家に右衛門は養子として入ったものと思われる。

五百瀬の小松家の家系図は今はないが、60何代か続いているそうですから、初代が右衛門という事はなく養子に入ったものと推測する。

2.家嫡争い

1204年兼盛と色川の盛広、盛安の間に家嫡争いが起き、維盛は窮余の策として、自分は死亡したとして生前葬を行い、遺言として兼盛に小松姓を与え、盛広、盛安は清水清左衛門(平景清の別名)の養子としてようやく騒ぎは収まった。(大平泰氏)

この1204年といえば、上湯川の小松家で維盛が死亡したとされている年である。(小松家由緒)

この事からもこの年までは維盛は上湯川に住んでいた事がわかるし、小松家由緒にある1204年6月30日死亡とも合致する。

尚、維盛が弥助と改名して小松家初代となったのは、まだこの頃は維盛という本名を出せなかったのだと思う。

又、盛広や盛安をさしおいて兼盛に小松姓を与えたのは維盛が屋島脱出後に最初に出来たのが兼盛であり、長男であるから当然の事といえる。

その年が1204年というのは兼盛が20才になった年であり、結婚話しがあって姓をどうするかで争ったのがすなわち家嫡争いであっといえる。

尚、維盛は上湯川を出た後、三重県芸濃町河内に行き、任玉庵(今の成覚寺)で1210年3月に53才で亡くなっている。

戒名は成覚院殿岩間浄圓入道である。

3.小松家の所領

維盛に住む土地を与えたのは上湯川近くに住む岩崎助九郎と近井半兵衛だといわれており、田畑三反半、山林五千町である。

小松家は山の中腹にあるが、昔は大きな家でその周りを家来の下川与助、中尾伝八、沼田官次、温井左衛門、西九郎助、戸山与惣次、東禎蔵の7名で固めていた。

4.家宝

小松家は過去三度の火災にあい、昭和26年の大風水害で家宝は消失したが太刀(宗近の作で無銘)と開かずの箱が残っており、この箱は昭和51年に初めてあけたが、中には木製の維盛像が入っていた。

家紋は臥潜蝶(ふせんちょう)。

替紋は丸に松の古文字。

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5.日光社

小松家より4㎞ほど上の山中に日光社はある。

創建については資料が残っていないのではっきりしないが、鎌倉前期には存在していたそうである。

平維盛が創建とする説があり、代々小松家が護ってきた経緯や、又、こんな人里はなれた山中に大神社を建てるのは維盛しかいないと考えて、維盛が創建したと考えて間違いないと思われる。

神社は1400年頃焼失し、資料もこの時に焼けたと思われるが近世の姿は本社、三社、末社、若宮八幡宮、拝殿庁、鐘桜堂があり、なかなか立派な神社であった。

明治10年に清水八幡社に合祀され、現在は神社跡に小祠が建っている。

主神は熊野坐神で、社殿の趣が熊野権現で似ている事から、熊野十二社権現と言われてきた。

神社にあった日光曼荼羅(150×117㎝)は小松家で保管されていたが、今は和歌山県立博物館に納められている。

箱の裏面には領主小松弥助平長盛と書かれており、長盛は小松家八代目当主である。

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6.杉谷明神

小松家のすぐ横に杉谷明神が祀られており、これは維盛が杉谷(今の小森谷)から移り住む時に持ってきて祀ったものです。

御神体はなぜか鶏の形をした石であるが、これは鶏は人が近づけばすぐに騒ぎ立てるので維盛の住んでいる所には必ず鶏を飼っていたそうで、それが御神体となったと考えられます。

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7.薬王寺と墓

杉谷明神の更に奥に薬王寺があり、小松家の菩提寺である。

その更に奥には小松家の墓があり、30基ほどの墓石が並んでいるが、一番右奥にあるのが維盛の墓である。

小松家での戒名は栄光院殿三位中将浄圓である。

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