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小森谷

小森谷は和歌山県田辺市竜神町にある山深い所の渓谷である。
いつから小森谷と呼ばれる様になったかは解らないが、そこに平維盛が隠れ住んでいる時は杉谷と呼ばれており、そこの高い山も杉谷山と呼ばれていた。
維盛が護摩を炊いて平家の行く末を占ったので護摩壇山と呼ばれる様になった。
平維盛が小森谷に隠れ住んでいた時に平景清が妹を伴なって訪れ、その妹との間に兼盛をもうけている。
この兼盛が平維盛、屋島より逃亡後、最初に出来た子供でありその生まれた年は1185年冬となっているので同年の春頃からそこに住んでいた事になる。
しかし、小森谷にはそう長く住まなかった様であるが、その地の娘、お万との悲恋物語がありそれにまつわる赤壷、白壷、お万が渕などがあってなかなか魅力的な渓谷である。

(1)道程

入り口は竜神スカイラインの護摩壇山タワーの西側約1キロメートルの所にあり、案内板が立っている。
そこから小森谷に沿って林道がつけられているが舗装されていないし、法面からの崩土が時々あり途中で車を置いて歩かなければならない時もある。
林道は入り口から6キロメートル先の「平維盛屋敷跡」までついているので、車で行ければ約30分で到達する。
しかし、雨の日や雨の後等は車がスリップするのでなるべく避ける事と、四輪駆動車を利用する事、また、滅多に人や車の来ないところなので複数の人と行く事や携帯電話も通じないので、まずその事を頭に入れてから行く事である。
維盛屋敷跡から先は遊歩道を歩く事になり吊り橋も4箇所くらい架かっている。
しかし途中で道がわかりにくい所もあるので、屋敷跡まで車で行ったら後は一旦龍神スカイラインまで引き返して更にスカイラインを南下し、大熊の方から入ったほうが迷う事も無くまた歩く距離が短いので楽である。
大熊からは殿垣内方面への道をとり約6キロメートルで出合という所に着く。
そこが小森谷の下流側であり、案内板が立っている。そこの右への道をとり約1キロで車道は終点となっているのでそこに車を置いて歩けば白壷、赤壷、お万が渕は直ぐの所にある。車での終点には案内板も立っている。全行程を通して歩けば四時間も五時間もかかるところなので車をうまく使ってその探訪として頂きたい。

(2)越戒の滝 衛門嘉門の滝

竜神スカイラインより車で入るとまず越戒の滝に着く。昔より、この滝にまつわる話があり、(若い行者がこの谷で若く美しい女にであった、ついていくとその女はこの滝で消えたので、行者は滝を登ろうとすると「あなたはここから上がってはいけない。私はこの滝を護る女です。この滝を上がると私が汚れます。私は水の精です。」と女の声がした。「お万かもしれない」行者は滝を登ると、頭から逆さまに落ちて死んでしまった。
この事から人々は越戒の滝と呼ぶ様になったそうだ。
越戒の滝を見る所より更に右の方へ遊歩道がついているが、木製の為、半分腐っている。用心して階段を昇る事です。
衛門、嘉門の滝は写真で見るように2つの谷が合流してそれぞれの滝になり、一つの滝つぼに落ち込んでいる、この滝にまつわる話もある。
私の本「どっこい維盛生きていた」にその話を載せているが、平維盛の家来に衛門・嘉門という兄弟が居た。二人は隠住生活を続けている平維盛が不憫でならず、今一度立ち上がって源氏に戦いを挑む様に進言したが、護摩壇山での占いの護摩の煙が立上らなかった事から意のままにならぬ事を嘆きこの滝で二人は刺し違えて死んだ。
向かって右が衛門の滝、左が嘉門の滝である。

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(3)平維盛屋敷跡

屋敷跡までは車道がついており越戒の滝から約2キロメートル先の所にある。
道路端には屋敷跡を示す案内板が立っているのでそこより細い道を50メートル位下ると屋敷跡となる。上下二段の屋敷跡があり、どちらも百坪位のものであろう。
下の屋敷跡には山仕事をする人が建てた小屋があり、古いもので崩れかけている。
屋敷跡の写真を撮る際、入ってしまうので早く撤去してほしいものだ。
前には小川が流れていて絵になる様な清流である。その小川の向こう側にも屋敷跡がありこれは家来達が住んだのだろう。
どちらも今は杉山になっている。
周囲は高い山に囲まれていて隠れ住むには絶好の所である。
この屋敷で平維盛は平景清の妹(富貴)と婚し一子、兼盛をもうけている。その兼盛が長じて平頼盛の子の保盛の娘と婚し、清水町の上湯川にすみ、小松家の祖となっている。
官位は正五位上であったが承久の乱に関与して退官となった。小松家は現在為成氏で三十二代目である。私が小森谷を探訪する際は清水町歴史探訪グループと共に氏も同行してくれた。

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↑小松家第32代小松為成氏

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↑屋敷跡前の清流

(4)お万が渕

お万が渕とは維盛の恋人であったお万が維盛との別れを悲観し、花嫁衣裳を着て渕に飛び込んで死んだのでこの名がついた。
私の小説の中でクライマックスシーンである。しかし、この渕については2説ある。現在、町が案内板を立てている所の渕と、小森谷の事を良く知る人の渕と2ヶ所あり、私は後者の人の言葉を信じて下流側のつり橋のあるところの渕だと思っている。その渕は現在は水が浅くなってしまったが、昔は満々と水を蓄えた渕であったそうだ。その岸は飛び込みやすいような垂直の崖になっており、ここがお万が渕だと云われれば納得できそうなところである。約二十年前にはそこに「お万が渕」を示す看板が立っていたがその後上流側に移設した。理由は解らない。

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(5)赤壷・白壷

赤壷は鉄分を多く含んだ岩なので赤色をしているのであろうし、白壷は石灰分を多く含んでいるので白い岩となっているのであろう。
この渕が三百メートル位しか離れていない所にそれぞれ存在するので不思議である。
この赤壷、白壷ともに遊歩道から五十メートル位下万にあるので木でさえぎられて見にくいのが残念である。
この二つの渕は維盛を慕うお万が花嫁衣裳を着て向かう際「もう白粉も要らぬ」と云って水に流したので白壷となり次に「維盛様にもう会われぬのなら紅も要らない」と云って
紅を流したので赤壷になったとの伝説がある。赤、白の渕をうまくお万さんの伝説に結びつけたと私でなくとも感心する話である。

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↑赤壷

(6)小森在所

小森谷渓谷の一番下流にある。車道の横に小屋があり、その横に案内板があり、その車道より細い道を百メートル位登った所にあり、所々に石垣があって、その上は田か屋敷であったのだろう。
十軒位の家はあったと思われる。竜神村史にも書かれているがここは平家の落人達が住んだ所だそうだ。
当然この在所の上流には平維盛が住んでいた事を知っていたであろうし、維盛の見張り役の人も世話役の人も居ただろう。今は無人となり杉山になってしまっている。小さな石仏が一つ祀られていたがこの石仏だけが平維盛や平家落人の事をしっているのであろう。

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(7)源頼氏屋敷跡

竜神の大熊より車で五分位走った所に殿垣内という里があり、家は今でも十軒位ある。
そこに源頼氏の屋敷跡がある。今は芝生になってしまっているが、二百坪位の広さの所である。
源頼氏は、源頼政の第5子であり、父の頼政が1180年以仁王と共に平家の大軍に攻められ、頼政には五人の男子が居たがその戦いで長男・次男を死なせている。
五男の頼氏にとっては平家は憎んでも憎み切れない程の存在であっただろう。
頼氏の支配地は、殿垣内の上下五里だったと云われているので、当然小森在所も維盛の住んでいた屋敷跡もその範囲に入る。
しかし、頼氏は温厚な人だったのだろう。小森在所の平家の落人達も許し、維盛とも争う事もなく田畑を耕す人となっていた。

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↑源頼氏屋敷跡

頼氏は竜神に来てからは戸野野頼氏を名乗り、広く竜神を支配した。六代目からは竜神姓を名乗り現在竜神享一氏は二十九代目で竜神で「上御殿」という旅館を経営している。頼氏の墓は殿垣内の手前、三百メートル位の所の道の上にある。「竜神和泉守史蹟」との案内板が立っている所で道が3つに分かれているので一番左の道が頼氏の墓へ行く道であり、真中が殿垣内へ行く道、右側が小森谷渓谷へ行く道となる。左の道を百メートル位登ると山の中に頼氏の墓はある。

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↑ 源頼氏の墓(右側)

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↑龍神享一氏の旅館(上御殿)