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平治川の里

平治川の里は本宮の奥にあり、平家人が大勢落ちてきた所である。
一番多いときで四十戸、二百二十名も住んでいたが、昭和四十八年に残っていた八戸が熊野本宮大社の横に移住して、今は誰も住んでいない。
立派な石積みの屋敷跡も、田や畑も杉山と化してしまっている。

一、 道程

新宮方面から行けばわたらせ温泉の警官派出所のところを右にとり、串峠のところでまた右にとる。
五分も走ると道は二つに分かれ右へ行けば栗垣内となるのでここは左へとり、曲川(まがりかわ)方面に入る。
そこから、川に沿う道を約二十分走らせると道は終点となり、案内板が立っている。

二、 平治滝

谷に沿って上流側へ山道があり約五百米、十分で行ける。
途中には屋敷跡や田畑の跡があるが、すべて杉山となってしまっている。
滝は二段になっていて、上の滝は高く五十数米あるそうだ。
要害の山から流れてきているそうだが、他の滝には決してひけをとらない滝である。

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三、お寺跡

車道の終点のところから、谷に掛かっている橋を渡り、山道を登る。
十五分位登ったところに倒れかけたお寺がある。玉泉山、滝徳庵(りゅうとくあん)と云って臨済宗のお寺である。
昔はこの広場で盆おどりもやって賑わった事だろう。
地蔵さんが十体ほど並んでいるが、皆首が欠けている。
昔、賭け事をやる人は、この首を持っていれば負けないという言い伝えがあり、一つ二つと首を持って行かれたそうだ。なんと罰当たりな人もいるものです。
きっと大負けしたものと思われます。

四、七人塚

ここから十五分登ると久保峠であり、庚申さまが祀られている。
七人塚はそのすぐ下にある。
源平合戦が終わって間もないころ、本宮の萩というところに、平家取締りの屯所がつくられた。要害の森に立てこもっていた平家人が水を汲みに降りてきて次々と斬られ七人が死んだ。その七人の墓である。
斬られたところは七人淵と云って平治滝の少し上流である。
今でもお参りに来ている人があるらしく、お花が挿してあった。

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五、若宮様

久保峠は四辻になっていて、右へ登ると十分で若宮様の鳥居が見えてくる。
ここは山の頂上で百坪位の広場があり、立派な神社が建っている。
三つの祠があり、真ん中のご神体はキツネである。右は金毘羅大権現の石柱が入っており、左のには木札が入っていた。
十一月三日の若宮神社祭には、各方面に出て行っている人たちもここに集まって、平治川長刀おどりを奉納して賑わったそうだ。この踊りは和歌山県の無形文化財に指定されている。
この若宮様は昔、平治川西の小野川の上流、井谷というところにあった。不便なためここへ移したのでしょうが、移した年代は解からない。
若宮様とは安徳天皇のことで、この平治川へ来たのは八歳だとの伝承がある。
天皇が平維盛と共に色川に来たのは五歳半だったので、色川で二年半居た事になる。
色川には稚児の宮が祀られているので、天皇の年齢に応じた神社名という事ができる。
ここで安徳天皇の動静をまとめると次のようになる。
〇、 一一八四年四月、色川へ入る。
〇、 一一八六年春、 平治川へ。
〇、 一一九〇年夏、 平治川を出て熊野市興福寺へ。
(色川宗家が鎌倉へ連れて行かれ取調べられたため)
〇、 一一九一年(推定)興福寺を出て伊勢の鈴鹿郡久我の庄へ(亀山市関付近)(興福寺に居る事が京の吉田経房に知れ捕らえられようとしたため)
〇、一一九四年春、 色川の盛広、盛安と共に宇都宮へ。

以上の様な経過があったものと思われます。

平治川では、天皇は山の生活に耐えられず死亡したとなっていますが、これは平治川を出たという事です。だから平治川には天皇の墓はありません。
ところで、天皇の世話をしたのは誰かというと、松浦氏となっており実際若宮様の宮内に掲げている寄付者芳名のなかに松浦の名前が二三名見受けられます。
他に、落人として来た人々に次の名が伝えられています。
森田弥兵衛  籠山兵衛  千田兵衛  平治川十兵衛  門田
久保  岡  井谷  藤川  尾郷  大地 (垣内高彦著より)

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六、要害の森

そこへ行くには本宮の発心門王子のところから入る。
龍神、中辺路に抜ける道を約十分走ると分かれ道があるので左へ曲がる。そこには三越峠の休憩所があるがその前を通って、五分位車を走らせると道は峠となり、その左側に鉄製の階段が造られている。この道は武住へ抜ける道である。
その鉄製の階段を登り、峰道を三百米位行くと急な坂道となる。
両側は絶壁に近く、牛の背中のような所を登る事になるので、スパイク付きの地下足袋を履くことが望ましい。
空堀などを超えながら、三百米位登ると要害の森の頂上である。
鉄製の階段の所からゆっくり登っても三十分はかからない。
頂上は、七七九米で見晴らしは大変よい。東方には大雲取の山や、その向こうには少しではあるが海も見える。
百坪位の平地があり、平家落人の何人かがここに住んでいたのだろう。
東側は絶壁で他の三方も急斜面であり、空堀もあることから敵は絶対に近づけない所である。
ここで平家の落人たちは何を思ったであろうか。果てしなく続く山並みを眺めながら、その栄えた時代との生活の変わりように涙した人も多くいただろう。

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七、絹巻岩

要害の森への登り口の所から林道は下り坂になるが、それを二百米下った所に絹巻岩へ降りる山道がある。
そこへ車を置き、山道を約十分下ると絹巻岩がある。
階段状に角柱が積み重ねられ、それはあたかも絹の反物を敷いた様に見える事から絹巻岩の名がついた。
ここには平家が宝物を隠したとの伝承があり、霊能者の話ではその宝物を護るために若い娘さんの人柱が眠っているという。昭和五十一年に立てた木柱があり、その三面に文字が書かれている。07-1

平家守護神柱
天之姫塚
真之財宝 心也

今まで何人かの人が、この宝物の掘り出しに挑戦したらしいが、
途中で病気になったり、死んだりして成功した人は居ないそうである。

平家や平維盛が宝物を隠したとされる場所は各地にあるが、掘り出した場所は大体において掘り返したままになっている。
唯一ここだけはそのままになっている事から、まだ掘り出されていない可能性がある。
命よりお金の方が大事な人は挑戦してみてはどうですか。              完