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檜曾原

色川の南平野に檜曾原という所がある。
昔は檜曾原村として独立していたが、明治二年に平野村と合併して南平野となり、檜曾原としての地名は消えた。しかし、檜曾原は歴史のある土地であり、特に平維盛や安徳天皇と深い関わりのある在所である。

維盛の子孫の「清水家伝記」に維盛は色川へ入った時、先ず檜曾原の的場家に立ち寄ったと記されており、的場は武人だったとの伝承がある。 また、「色川村史」に色川の頭(かしら)の七家の中に、口色川の上裏(清水)、大野の水口、田垣内の水口、坂足の東、中の川の小松、小阪の中次と並んで平野の的場が記されている。これは江戸時代初期に書かれた汐崎重幹氏の古文書によるもので、その頃は的場家も旺盛を極めていたのだろう。 その的場家は今は檜曾原にはいない。恐らく江戸時代中期に檜曾原を出たものと思う。 その後へ湯川、二河(にこ)の栃の木にある大江家の孫三郎が分家して檜曾原に住み着いた。檜曾原の蔵平地区にある大江屋敷がそれである。 孫三郎は潮崎姓を名乗り、現在、潮崎辰男氏で十一代目である。 大江家なのに潮崎をなぜ名乗ったかという事であるが、戦いに破れて潮崎の庄(現在の潮の岬)に落ちてきたからという事である。 檜曾原には終戦後の多い時で、潮崎、尾崎、下路、新舎、岩本、西山家など十三軒があったが、今は潮崎(二軒)新舎、尾崎、蜷川家だけとなってしまった。
一、 瑞祥庵(ずいしょうあん)

檜曾原の下浦地区にある。 御本尊は観音様であり、飛び火の観音様といわれその横に流れてきている水を飲んでお願いすると湿疹、喘息、火傷、腰痛によく効くという事で遠く北海道からもお願いに来る人がいる程であった。 臨済宗妙心派で今は住職が居ないため、勝浦の天満の住職に来てもらっているそうである。 ところで、飛び火の観音様といわれる所以ですが、昔は川向いにお寺があった。そのお寺が火事にあった時、御本尊の観音様が今の所まで飛んできたという。 そのようないわれから飛び火の観音様といわれるようになった。 なお、川向いにあった時は浄光庵といわれていたという。(熊野見聞記) 維盛の出家名は浄圓という事であるから、私はこの浄光庵は維盛を供養するために建てたのではないかと推察する。 井鹿(いじし)川を挟んで川向いには、お寺の屋敷跡があり、そこから先、井鹿に向かって田や畑が並び、昔は七十軒もの家があったという。その人達も明治時代には出てしまい今は一軒も残っていないが、そこは隠れ住むに適した所である。 維盛は藤綱の要害に隠れ住みながら、妻のお妙をここに住まわせたのではないかとも考えられる。 また、大江屋敷のある蔵平地区には昔、宮付きの(菊の御紋の入った)お寺があった。菊の御紋は天皇家である。維盛は色川に来たとき、安徳天皇を連れて来ていたのでその天皇に関係のあるお寺であったのであろう。そのお寺の寺名は解からず古い時代に瑞祥庵に合祀されたとの事である。

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二、 星帝(ほしみかど)神社

瑞祥庵のすぐ横、井鹿川の川べりにある。 ご神体は丸い石である。丸い石は王を表すから星帝という意味は星のように輝く天皇という意味で安徳天皇を指すものと思われる。 この神社は安徳天皇や維盛が色川を出た後、的場家が建てたものと思われる。

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三、 五輪塔

蔵平地区に建てられていた事からこれも的場家が建てたものと思われる。 しかし、江戸時代の中期の大雨のよる土石流によって流され、埋まってしまった。そしてその後ここに移り住んだ潮崎家の六代目の人が畑を耕していてこの五輪塔を掘り出した。 これをもっと詳しく説明するため、色川災害史を見ると一六九三年の大雨で色川で六百軒倒れるとありますので(熊野史)、この災害で田畑も流され五輪の塔も埋まった。そこで的場家は復旧をあきらめ檜曾原を出た。 その数年後に大江家の分家の孫三郎が檜曾原に入って、田畑を整備して住み着いた。孫三郎の死亡年は一七二三年となっている。 しかし、その時はまだ五輪の塔は堀り出されず、約百七十年後の明治四年に孫三郎の六代目分家の人が畑を開墾していて掘り出した。その時、五輪の塔と共に刀や鎖の入った壷も出土したそうだ。 この五輪の塔ですが、二基あり分解してみると、一番下の台座に一基は小松と彫り込まれており、もう一基には三位と彫られている。小松三位とは維盛の官位であり、維盛の供養塔に間違いない。 なお、その五輪の塔は現在蔵平地区より一キロ上の大原地区に移されている。

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四、 大江家

檜曾原に住む潮崎家は栃の木の大江家の分家であると前記したが、大江家の始祖は源頼朝に仕えた大江広元の子(長男)の親広(ちかひろ)である。この事は私の書「大江家」に詳しく書いたが、要約すると、

〇大江広元は当時鎌倉に居たが七十歳を過ぎていた。だからその子の親広は 五十歳位になっており京に来て仕事をしていた。

〇一二二一年に承久の乱が起こり、その際後鳥羽天皇側について戦う。親子で敵味方に分かれたわけですが、親広は天皇に仕えており致し方なかったものと思う。しかし天皇側は敗北し、親広は行方不明となる。(承久記人物一覧)

〇この戦いに平頼盛の孫の保教も参加し闘死したため、保教の叔父にあたる保業(やすなり)が京を追われて船で潮崎の庄に落ちてきて潮崎姓を名乗った。  親広が行方不明となっているのは、この船に同乗し保業と共に落ちてきて二河の奥の栃の木に住み着いたためである。(推測)

〇この事から栃の木の親広は大江家を名乗ったが、分家の孫三郎は潮崎姓にした。

まとめ

この様に檜曾原には維盛の供養塔や、出家名にちなんだ浄光庵があり、また安徳天皇にちなんだ、菊の御紋の入ったお寺や星帝神社がある。 檜曾原とは解釈の難しい古風な地名であるが、維盛や安徳天皇にとって相当に縁の深い地であったといえる