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殿様道(侍道)

一、殿様道

色川には、殿様道という山道がある。
人が歩く道であるが、一般的な山道より少し立派で敷石によって固められた道である。
幅は二米位で、色川は坂が多いので階段状の所もある。
始点は那智の滝前の車道の所からで、
ルートは青岸渡寺→那智高原→妙法山奥の院→阿弥陀寺→南平野→口色川→大野→籠→樫原まで続き、距離にして十余キロとなる。

ところで、この殿様道は何のために造ったかと云えば新宮の殿様が色川を訪問するための道であった。

徳川家康が徳川幕府を開いた一六〇〇年、浅野幸長の氏族の浅野忠吉が新宮城に入った。しかし、忠吉は一六一九年広島の三原城へ城替えになり、代わって水野重良が新宮城に入った。なお忠吉が三原城へ入るとき、三輪崎より四五百人の漁師がついて行き、そのまま三原市へ住み着いている。

では、なぜ水野の殿様がこんな山奥の色川までわざわざ足を運んだかと云えば、平維盛の子孫が色川に住んでいたからに他ならない。

いつ頃から色川を訪問するようになったかについては記録が無いので定かではないが、私は次のように推測する。

水戸光圀公が大日本史を編纂すべく、家来の佐々宗淳(助さん)に命じて、那智山の古文書を調べに来た。その時色川に平維盛の子孫が住んでいる事を知る。

そこで、新宮城の家来に命じてとりに行かせ、平維盛の子孫の清水盛成が色川文書を持ってきて宗淳氏に見せた。それは、一六八〇年の事である(大野文書)。

その文書を謄写して光圀公に送ったところ、光圀公大いに喜び清水家に銀子を与えている。
この時以降、新宮城主の水野家が色川を訪問するようになったと考えられます。

なお、大日本史には平維盛の子孫のことが載せられ、色川一族が平維盛の子孫として公認された訳です。

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二、殿様行列

色川には各所に番屋があり、見張りの人が配置されていた。これは清水家を本家とする色川一族は南北朝時代、南朝に味方して北朝方と戦ったり、その後も王達を護って戦ったからである。

妙法山頂上もその番屋のひとつである。
新宮城主が色川を訪問する時、前もって知らせがあるが、いよいよ色川へ入る頃、妙法山でホラ貝が吹かれる。その音は色川中に響き渡ったという。

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その音を聞くと色川村民は、山で木を切っている人も畑仕事をしている人も先ず家に帰る。そして一家揃って近くの殿様道へ行き、地面にひれ伏して一行を見送る。
殿様行列の人数ですが大体、百名ぐらいであったと云われている。それは殿様を護る武士や、布団の入った箱を担ぐ人(家来は野宿のため)、食料品、着替えを運ぶ人であった。

口色川の清水家がその接待場所であったと考えられるが、そこから約八キロ奥の樫原まで足を伸ばしたものと思われる。それは樫原には平家の上総五郎兵衛盛清という人が狩場刑部左衛門と名を替えて住み、当時熊野山を荒らし回っていた盗賊を退治し、熊野三山よりお金百貫や寺山三千町歩を貰ったりした功績により王子社として祀られていたからである。

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さて、殿様の接待役に清水家の氏族である奥番や小森川、高野の人たちも集まって来たのだろう。こんな話もある。

色川一族は維盛の子孫のため、美男美女が多いと評判の土地であったが、高野にお千代、お亀という美女の姉妹がいた。この姉妹が殿様の家老の目にとまり、どちらでも良いから息子の嫁にと所望された。

しかし、お千代さんには、すでに恋人がいた。思い悩んだ二人はある夜、こっそり家出をした。高野の人たちは手分けして探したが、とうとう見つからなかったという事である。
この事から、高野の人たちも口色川へ出向いて殿様を迎え、お千代、お亀の二人もその接待をしていたものと思う。

なお、色川の人たちは何時殿様行列が来ても良いように、各家では軒先に草鞋を吊るしていたという。

三、殿様屋敷跡(口色川)
色川には水野の殿様屋敷跡がある。いま、製茶作業所になっている所である。
これは、水野家第九代、水野土佐守忠央(ただなか)の館であった。ではなぜ、水野家の館が色川にあったのであろう。これは彦根城主であった井伊直弼(なおすけ)の暗殺と深い関係がある。

忠央は直弼と同じ様な考えを持っており、その時、江戸幕府に参政していた忠央の身の上を案じた幕府は、忠央に新宮城への帰城を命じた。

一八六十年六月、新宮に帰った忠央であったが、気質強く、才知抜きんでた忠央は藩政に参画したり、家来に軍事演習などさせるなどしたので、志士の危害をいつ受けるかもしれないと藩老らは憂慮して、忠央を僻地の色川に隠住させることとし、ここに邸宅を建てた。

しかし、忠央がこの館に住んだのは一日だけだったと云われている。それを裏付ける資料として紀宝町の赤井家文書がある。

「大殿様、南筋辺江、被為入候につき、日記」として
一八六四年九月十八日、 水野忠央は供揃えで城を発ち、佐野から浜の宮補陀落寺及び実方院を訪う。

十九日、 滝を見てから、口色川御殿に入る。
二十日、 井関、天満、湯川へ。
二十一日、船で高芝(下里)へ行き、浜で地引き網を見物。
二十二日、ハゼ網引きを見物後、太地浦へ着き鯨突きを見物。
二十三日、太地から湯川、勝浦行き。
二十四日、勝浦より宇久井まで船で行き、佐野を経て新宮に帰る。

勝気で行動派の忠央としては、僻地に隠居などは性に合わず、体裁をつける為
に、一日だけ宿泊したという事だろう。
ではなぜ、殿様の隠住地として色川が選ばれたのであろう。考えられる事として
〇、色川は平維盛はじめ数人の平家落人の子孫であり、平家はその昔、天皇を
護った北面の武士であった。
〇、色川一族は、南北朝時代から後南朝時代にかけて南朝に味方し、天皇や王たちを護って戦った忠君の気質高い一族である。
〇、天正の頃には、新宮の堀内軍に攻められたが、村民力を合わせてよく戦い、二度とも勝利している。
〇、この様に色川郷民は武術に優れており、何かの時は護ってもらえる。
〇、以前より色川郷民とは交流があり、気心が知れていた。
この様な事から殿様の隠住地として色川が選ばれたのであろう。

四、上げ知米

「色川旧村誌」によれば、色川の清水家(平維盛の子、盛広の家系)は代々庄
屋を勤め、その領地は広大なものであった。特に豊臣秀吉の朝鮮征伐に色川よ
り三十六名を出征させた功により、更に増え合計二十四ヵ村となった。
しかし、江戸時代に入ると、新宮城主になった浅野忠吉に領地はことごとく没
収された。
このため、農民は年貢米を新宮領主に納める事となったが、色川産米は「上げ
知米」と云って主に城主の食料に供されるものであった。