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清水・水口家とその分家

平維盛は那智勝浦町の色川に隠れ住んで二児をもうけている。
盛広と盛安である。
この二人について大平泰(本居宣長の末孫)の研究をもとに説明する。
1.盛広
清水家初代である。
清水姓となったのは、平景清が色川で維盛と共に居る時は清水清左衛門と名乗っており、その養子となったからである。
1187年生まれ。幼名小の麿、別名清水権太郎。
尚、弟の盛安は幼名松の麿となっており、この二人の頭文字を合わせれば小松となり、うまく考えたものである。
母は平景清の異母妹(お妙)。
二人は色川にて育てられていたが、1194年頃、維盛の命令で平景清は安徳天皇と共にまだ幼い小の麿(8才)と松の麿(6才)を栃木県の宇都宮朝綱のもとへ連れて行き預けた。
しかし、源頼朝の知るところとなり、1196年頃頼朝に降参した景清は日向国の所領や多大の金銀を与えられた。
これより先1194年7月に朝綱は尾羽寺を建立した際、国衛領、公田百町歩を侵犯したとして朝廷に訴えられ、朝綱は高知へ、孫の頼綱は大分県へ、頼業の弟は山口県へ流罪となる。(吾妻鏡玉葉)
そのような事から、安徳天皇は朝綱と共に高知へ、小の麿、松の麿は一時、宇都宮氏に預けられたがすぐに色川へ帰る事になったものと思う。
1219年、33才の時に出家、津市の清雲寺第4代住職となる。
1244年7月18日死亡(58才)。
2.盛安
水口家初代である。
幼名松の麿。別名清水小次郎。
1189年生まれ。母は盛広の母に同じ。
1214年、26才の時、臨済宗開祖の栄西禅師を鎌倉に訪ね、寿福寺にて出家する。
清雲寺第3代住職。
1233年6月10日死亡(45才)。
3.清雲寺
当時、伊勢に住んでいた西行法師と共に平維盛は津市一身田に清雲寺を開山する。
住職
初代:平維盛 成覚院殿岩間浄圓阿闍梨
2代:平景清 大乗院浄覚法師
3代:盛安 放光院浄神法師
4代:盛広 大光院浄徳法師
5代:安清 宝樹院浄林法師
備考
○清雲寺開山は1185年後半の頃
○清雲寺という寺名は維盛の末弟に清雲(重遍)が居り、仁和寺僧都となっているので同名にしたのだろう。
○平維盛の法名が成覚院殿岩間浄圓となっているのは、維盛が高野山の智覚上人や西行法師から真言密教を学び、当時の金剛峯寺検校の理賢から上記法名を与えられていた為である。
○三代目住職の盛安が1233年死亡したので、盛広が四代目住職となる。
○安清は盛安の子であり、1219年生まれ。木下家祖。
1268年9月19日死亡(50才)。
○清雲寺住職が5代までしかないのは次の理由による。
上湯川の小松兼盛の子の盛次と安清との間で法燈継承をめぐって骨肉の争いが生じ、1268年にはついに宗論(臨済宗対真言宗)にまで発展した。
しかし、同年9月に安清は死亡し、結局盛次(金剛院浄山法師)の勝利となる。
盛次は、清雲寺を閉山とし、芸濃町河内に維盛が建ててあった任玉庵を曹洞宗青運寺として開山した。
よって、清雲寺は1269年に絶えたので、盛広の子の盛次や安知(野口家祖)は維盛ゆかりの地、色川に戻って帰農した。
○以上のように盛安、盛広、安清と色川三人組で守ってきた清雲寺の法燈も5代で絶えた事は残念であったにちがいない。
その悔しさを晴らすためであろうか、ここ色川やその周辺のお寺のほとんどは臨済宗のお寺となっており、このような地域もめずらしい。
又、維盛の孫を始祖とする坂本家や野口家の在所には昔より共に清雲寺があり、今も立派にその役目を果たしているのは有り難い事である。
4.清水家家系図
【家系図】(西暦で年代を記しているのは推定年代である)
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5.備考
(1)清水家は現在清水冷五氏で32代目である。
(2)清水家よりの分家は家系図にも書き入れてあるが、年代順に記すと次のようになる。
下村家、坂本家、柳畠家、上の向家、久保家、山本家、谷家、向家、上平家、下向家、西村家、西裏家(西浦家)
(3)水口家については家系図がないのでわからないが、木下家、野口家、浦家が出ているのは確かである。
(4)清水家、水口家のどちらから出た家系かわからないが、東家、色川家がある。
しかし、色川家は1400年頃、北畠親房について北陸征伐に向かった際、嵐にあって茨城県に上陸し、そのまま土着した。
関東に色川家の子孫である色川三中(幕府の志士)、色川武夫、色川幸太郎(元最高裁判事)や色川大吉(東京経済大学)等が出ているのはこの為である。

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