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色川文書

私の書の中で、時々「色川文書」と出てくるが、これは昔から色川の清水家に伝わる文書ですが、ここでまとめて説明しておきます。(現代語に訳す)

1.色川文書
○1336年3月14日
南軍は凶徒(北軍)を退治して、天皇に忠義を尽くされたる事神妙で、尚、今後とも忠節を尽くされよ。
天皇の思し召しによりこの状を贈る。
(これは後醍醐天皇よりの綸旨だといわれている)

○12月24日
色川兵衛尉平盛氏が一族を引き連れて、紀州各地の賊軍を討つ為出立された、よく忠義を尽くされたい。
(年号は入っていないが、同年のもので、後村上天皇よりの綸旨だといわれている)

○1455年8月6日
色川郷は先皇(後醍醐天皇)に由緒ある地である。
その縁者が大河内(紀和町)行宮にて出達するので早く参じて軍功を致す様に、然らば恩賞あるべきものなり。
(これは忠義王からのもので、忠義王もその兄の尊秀王も後亀山天皇の曽孫に当り、尊義王の子である。又、義有王の子で後に尊義王の猶子となった尊雅王の妻、藤の川(局)は平維盛の子孫の色川左衛門盛定の娘である。このような関係で清水軍にも援軍の依頼がきたものと思われます)

○1336年色川一族は、5月14日、15日の両日浜の宮、佐野に押し寄せ、27日新宮山にて合戦し、足利尊氏の一族である石堂義慶や下熊野法眼の凶徒を追い払い、彼らが数百艘の船に乗って古座沖に逃げるのを追いかけ、潮岬で5~6日合戦し忠節を尽くした。
又、同年7月8日には京都の山崎で赤松二郎軍と合戦し、9日、向明神にて賊を散々に追い払って帰ってきた。
(これは清水盛氏が軍功を奉行所に注進したもの)
尚、この時古座に来ていた小山実隆も色川軍を応援し、海戦となっている。
小山氏は鎌倉の命により、1331年に一族130名を引き連れて栃木県よりきていた。
北朝であり清水軍とは敵の関係であった。
これが5年後のこの戦いで清水軍に替わったのは一貫して南朝を支援する清水盛氏の人柄に引かれていったのかもしれない。
新宮対岸の鵜殿氏もこの時南朝に替わっている。
船を多く持つ鵜殿水軍は清水軍にとっては心強い味方であったのだろう。
この戦いにより、今まで北朝であった新宮、那智山は完全に南朝一色となった。

上記忠節により、清水盛氏は日高郡岩代庄を与えられ、その子盛忠も弱冠20才位であったが、父と共に奮闘したので兵衛太夫に任命されている。

○この他にも五辻親王のものらしきのもあるが判読不能につき省略する。

○又、次の書も色川文書として扱う場合もある
平盛氏、平盛忠伝記
平盛成譲伝状
色川三九郎伝記
清水家領地の沿革
雪潭禅師伝

○那智勝浦町史の色川文書の9項で
「分家尾張、鳴海より証書の写し」として、
一.色川清水家御系図 一巻
一.同盛成公御遺書 一巻
右の二巻、拝見し写し取りましたので御許容下さい。
天保十五年八月十八日(1844年)
下郷四郎兵衛 書判
下郷次郎八 書判
清水覚蔵殿

以上の通り記してありますが、これは清水家の分家ではなく下里家(現植地家)の分家です。
下里家は平維盛の子の維忠の子孫で下里城主になった人です。
鳴海の下郷家は豪商で東海道中最大の本陣で松尾芭蕉のスポンサーでもあった。
屋号は「千代倉屋」で徳川家と強いつながりをもっていたので、この色川文書を見る事が出来たのであろう。
(詳しくは「下里家」を参照)

2.大日本史
1657年徳川光圀公(水戸黄門さん)は大日本史の編さんを志し、彰古館を開く。
家来の佐々宗淳氏(助さん)に命じて「色川文書」を熊野まで取りに行かせた。(1685年)
宗淳氏は謄写して持ち帰り、光圀公に見せたところ、光圀公は大いに満足し、清水家に銀子を贈られた。
これをもっと詳しく説明すると、宗淳氏は那智の実方院に泊まり、那智山の古文書を収集していたところ、色川に昔から伝わる色川文書があること知る。
そこで取りに行こうとすると色川への道は険しいので持ってこさせましょうといって、新宮城主の家来が色川に行き、清水家第19代盛成(覚太夫)と共に色川文書を持ってきたという事です。
その時宗淳氏が光圀公に送った手紙に(那智山より五里程奥に色川と申す山村あり。ここに平維盛の末葉が住んでおり、文書などを持って来させた)と記してあります。

「大日本史」は1906年に完成しているから、実に250年の年月をかけており、397巻にもなる。
この本は神武天皇時代から南北朝時代の終期までを載せているが、南北朝時代については南朝の天皇を正統としているのが特徴で、この事から南朝の天皇や王を守って戦った色川清水軍には大いに喜ばれたことであろう。
又、大日本史はその大部分を天皇や皇族、貴族、日本を動かした人物を中心に記録をまとめたものであるが、その中にあって一寒村の色川が取り上げられた事は私達にとっても喜ばしい事である。

この南朝、北朝の天皇については明治45年の国会でも問題として採り上げられたが、国会では判断が出来ずに明治天皇に裁断を仰ぎ、天皇は南朝が正しいとの見解を示している。
このように私達の郷土には身を挺して正義の為に戦った先祖がいたことを永久に忘れてはいけないだろう。