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落合の里

津市芸濃町河内は、落合家が多いので落合の里と云われている。
落合家の始祖は、和歌山県有田川町上湯川の小松家の平維盛の孫にあたる盛次である。
一、 盛次について

父の兼盛卿は京で宮仕えをしていたが(官位、正五位上)、一二二一年承久の乱が勃発し、それに関与したために解官となり上湯川に帰る。
盛次は一二二一年に生まれる。母は平頼盛卿の子、保盛の娘。 幼名、安(保)次郎、その後落合左衛門盛次。

一二三六年(十六歳)曹洞宗開祖道元禅師のいる宇治深川(現京都市伏見区)の興福寺に入山し出家。一二六十年頃首座で修学を終える。 法名、金剛院浄山法師。 津の一身田に維盛が建てていた青雲寺に入るが、そこには安清(色川木下家祖)がおり、法燈継承をめぐって争いが起きる。この争いは宗論(臨済宗対真言宗)にまで発展したが、一二六八年安清が死亡した為、盛次が勝利した様な格好となる。 盛次は青雲寺を閉山し、芸濃町河内に維盛が建てていた任玉庵を清運寺として開山する。 しかし、盛次もその争いの心労疲れから翌年の一二六九年二月十五日に死亡した(四十九歳)。 子に、清谷院浄閑法師がおり、清運寺を継いでいる。
二、 任玉庵

平維盛は河内に任玉庵を建てた。それは安濃川上流で安濃川と北畑川が分かれる所である。 建てた時期であるが、維盛は一一八四年三月に大型船で津へ来ており、その際河内に多量の宋銭を隠しているので、その監視人を住まわせるために同年に建てたものと思われる。 その任玉庵で維盛は一二一〇年に死亡している。

その後、北都山清運寺となった後、住職十二代目の時に岩間山成覚寺となっている。

この成覚寺は維盛の戒名の成覚院殿岩間浄圓入道からとったもので、宗派は真宗高田派である。 本堂には維盛坐像や維盛の念持仏があり、境内には平維盛之墓がある。 寺紋は五本骨の日の丸扇である。 この落合の里のある河内谷には、昔十カ寺もあったそうだが、今では成覚寺、澄源寺、本法寺、浄得寺、願了寺だけとなってしまった。

また、芸濃町史によると、一一八六年から二名三名と熊野から木地師や農民が移り住んだとの記録がある。 その時代維盛は色川や高野山に居たので、維盛の命令でこの熊野から行ったものと思う。

落合の里は、明治の初めの多い時で百五十軒ほどはあったが、今では四十軒となってしまった。 ほとんどが落合姓ですが、維盛の子孫だけでなく熊野から移住した二十数名も明治の初めに皆落合姓にした為である。

その成覚寺には平維盛の墓と維盛母や平景清、盛広(清水家祖)盛安(水口家祖)安清(木下家祖)の墓がある。 これは、維盛母や景清、盛広、盛安、安清は津の青雲寺で死亡したが、青雲寺を閉山した際、盛次が墓を落合の里の清運寺(現成覚寺)へ移動させたものと思われる。 また、盛広や盛安が落合の里に住んだとの説もある。だから盛広や盛安の子が色川へ帰って来なかったら、色川に維盛の子孫は存在しなかった事になる。

落合の里から出た有名人に北条早雲がある。
しかし、その出生には諸説あり一例をあげると、 結城宗弘の妾が落合の里で男子を産み、伊勢新九郎と命名する。成人して浜松の今川家の食客となり、北条早雲と号して足利政知の死後の混乱に乗じて伊豆に攻め入り六十二歳で伊豆国を奪った。さらに甲斐、相模、越後にも兵を出し小田原城を奪って小田原北条氏の本拠を構え、伊豆、相模、二カ国の大名となった。

また、落合の里の人達は維盛の子孫であるだけに武芸にも励んでいたらしく、大阪夏の陣では「落合の赤旗軍団」として徳川方から恐れられた。

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三、 錫杖ヶ岳の雨乞い神事

落合の里の近くに錫杖ヶ岳(六七六メートル)という高い山がある。 落合の里が旱魃の時、維盛はその山上で雨乞い神事をおこなった。これを先例として明治時代まで神事は行われたが、高い確率で雨が降ったと伝えられている。 これは維盛の数々の徳行を知る天の神が、その子孫達の願いに応えた結果だといえるだろう。

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四、 六波羅蜜寺へ宋銭を贈る

清運寺伝に(要約) 「平維盛は京の六波羅蜜寺へ宋銭一万貫を贈り、平清盛坐像安置と七千四百余名の泥塔を建立し源平内乱で死亡した平家一門の霊を弔った。六波羅蜜寺の住職はそのお礼として空也上人造作の十一面小観音像を維盛に進呈した。」と書かれている。 その清盛坐像は、教科書等で清盛の説明をする時によく出てくる写真であるから広く知られているが、今まで誰が奉納したものか解かっていなかったが、この寺伝を私の書「平維盛の真実」で発表した事により、維盛が贈った事が判明した。作者は運慶かその系統の人だろうとの六波羅蜜寺の住職の話であるが、維盛ともあろう人がその弟子に彫らせる訳もなく、運慶自身の作と考えられる。 またそのお礼に頂いた十一面小観音像であるが、落合の里の澄源寺に安置されていたが、平成三年に盗難に遭い行方知れずとなっている。

さて、その宋銭を隠していた場所であるが、落合の里にその場所を知っている古老が居り、今まで誰にも教えなかったが、私は地元の人で無いという事でこっそり教えてくれた。だから口外できないが成覚寺近くの洞窟とだけ書いておきます。 そこに住んでいた落合の庄屋の人は、江戸時代の終わり頃までは特に働かなくても食べていけたという事なので、宝物の恩恵を受けていたものと考えられます。

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五、 宝物伝説。

ここで宝物の話が出たので、平維盛の宝物伝説についてまとめてみます。

〇落合の里
落合の里に隠していた宋銭を六波羅蜜寺へ一万貫贈っていますが、これで全部だったとは思えない。 その洞窟には少なくとも二万貫は隠していたものと思われる。これは維盛が大型船で伊勢へ来て源頼朝と会った際、宋銭を小船何艘かに積んで安濃川を遡って落合の里に隠したものと思われる。当時は日本にはお金が無かったので中国のお金である宋銭が使われていた。

〇平治川
その他に隠した場所として解かっているのは、本宮の平治川である。 平治川には一番多くの平家が落ちてきていたとみられるが、平治川の奥の「絹巻き岩」という所に隠したという伝承がある。 これは自然の岩と人工の岩を組み合わせて積んでおり、それがあたかも絹の反物を流した様に見える事から「絹巻き岩」と云われてきた。 そこに私は少なくとも一万貫の宋銭を隠したとみている。

〇色川
次に色川である。 落合の里と平治川に隠していて、色川に隠さない訳はない。 維盛の子が幾つもの城を建てた経緯や、室町時代に当時の庶民が稗や粟や木の実を食べている時代に、百姓そっちのけで戦いに出て行った事などを勘案するとやはりお宝の恩恵を受けていたと見るべきだろう。

そこで、色川で隠した場所はどこかと云えば、維盛や安徳天皇が匿われていた坂足か檜曾原だと思われる。 もちろんその他にも宝物が出た場所が数ヶ所あるが、それらは皆維盛の子孫の住んだ家の敷地からで、その量もせいぜい壱斗桶に一杯ぐらいである。 そこで、奥番に住んでいた坂本本家が出た後、神玉屋敷に住み、奥番の主となった谷家(旧姓山本)の保氏の書を見ると、 「神玉の上流に洞窟があり、そこに近づくと大蛇の唸る声がする、私はそこに宝物が隠されていると思えてならない」と書かれている。 この穴は多分風穴で、大蛇の唸りは風の音であろう。 しかし、この付近で山仕事をする人に聞いても、そんな洞窟は見あたらないと云う事なので、もう埋まってしまったのであろう。 その場所の近くには、「宮の洞」という所もあり、そこには昔、安徳天皇ゆかりの「稚児の宮」も祀られていたので、あながち根拠の無い話でもない。 命よりお金の方が大事な人は一度探索してはどうですか。

〇上湯川 有田川町上湯川は維盛がその子兼盛と共に十余年住んだ所である。 その家の上には「日光社」が建てられている。その規模の大きさからして沢山のお金を要したと思われる。 そのお金は恐らく上湯川に隠していたのではなく、その前に住んだ近くの小森谷に隠していたものと思われ、その量は少なくとも一万貫は下らないであろう。 このように推察していくと、維盛が持ってきたお金は全部で五万貫以上となる。さすがは平家、さすがは維盛ということになる。

だから、維盛がもし「平家物語」に書かれたように重景、石堂丸、武里の三人の従者だけで屋島を脱出したのならこの説明はつかない。 やはり、当時の信用できる日記である「玉葉」に書かれている「平維盛は大型船三十余艘で屋島を脱出した」の方が真実味を帯びてくる。 もうそろそろ「維盛は那智沖で入水した……」とする流言から我々も脱出しようではないか。