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藤綱の要害

184年4月、平家の大将であった平維盛が色川へ落ちてきた。同行者は与三兵衛重景、平景清と石童丸と偽称した安徳天皇である。ただ安徳天皇は二人居り、維盛が連れていたのは、維盛と、建春門院新中納言の間に出来た男子の方で天皇になった方である。もう一人の高倉天皇と建礼門院の間に出来た女の子は、建礼門院が連れて、この時期は屋島に居た。この事は私の「平維盛の真実」に詳しく書いている。

色川では色川宗家(佐衛門佐盛重)の世話になり、大野より北方向の約4KMの山中に隠れ住んだ。そこが「藤綱の要害」である。

( 1)色川行き

藤綱の要害に入るまでの経過を説明すると、同年3月28日一行は那智沖で入水と見せかけて山成島に登り、そこから太地の伝兵衛さんの舟の助けを借りて、
太地の水の浦に上がり、濡れた衣類を乾かした後市屋に入り、上家に一泊した。
次の日大泰寺に参拝した後、門前に椎の木を植えた。

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今道を覆う様な大木になっているのが、その椎の木である。
やがて一行は中の川の庄右衛門宅で一週間程の世話になる事になる。
庄右衛門宅を出る時、一振りの太刀と小松姓を与えた。
一行は、古層金七の案内で南平野の的場家を訪ねた後、色川に入り色川宗家(色川を拓いた人)の世話になった。

色川宗家は大野の奥に小屋を立て、維盛主従をかくまった。
その事からこの屋敷跡付近を庵谷と呼ぶ。では、なぜ「藤綱の要害」と呼ばれたのかと云うと、その屋敷の前の谷に藤の蔓で橋を掛け、追手に追われた時、網を切って敵を谷へ落とす仕掛けがあった事から、そう呼ばれてきた。

(2)道程

「藤綱の要害」へ行くには二つの道がある。
ひとつは大野から山越えで入る道で約一時間半要する。
この道は色川の人達が維盛の世話をするために毎日の様に通った道であるからその体験を味わう為にも是非通って見たい道であるが最初の30分位は登り坂で少々しんどい。

もう一つは大野の北側の滝本から入る道であり水力発電用の導水管の点検用通路を利用するが途中20分くらいは急な階段を登る事になる。休憩を挟んでも1時間で行ける所であり案内板も七枚程立っている。
しかし、今那智高原から大雲取への車道を利用して途中から藤綱の要害へ向けて車道を造りつつあるのでそれが完成すれば近くまで車で行けるので楽であろう。いつ完成するか今のところは未定である。

(3)屋敷跡

平維盛屋敷跡は約500坪位はあるだろうか。
現在は植林されて全体に杉林になっている。後方は直径2米位の角石柱がそそりたっており、前は谷川である。
その谷川には2つの滝がありダムの下の滝を「コッペ滝」屋敷の上流側の滝を「奥コッペ滝」と云うらしい。

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↑奥コッペ滝

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そのコッペ滝の「コッペ」は「国兵」が訛ったものとの説もあり、平維盛は平家若大将であるから多くの兵(見張り役)に守られていたものと推察される。
屋敷前には石垣があり用水路があるが、これは明治時代、色川の人達が水車による製材所を造った後であり、維盛遺跡とは関係ない。
屋敷前には渕があり昔はウナギ・アユ・アマゴ・など良く捕れただろう。

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しかし大変な山奥である上に谷川のそばである事から、夏は涼しいだろうが、冬の寒さは厳しかっただろう。
それに当時は熊や狼が居た時代であるから襲われない様に注意しながらの生活になったものと思う。

(4)ここにいつまで住んだか

さて維盛主従はここにいつまで住んだであろうか。
色川清水家由緒には「約3年間隠れ住み」と記されているが実際はどうだかわからない。
下里出身の故浜光治氏の書では、この藤綱の要害で1190年1月6日の夜、主従は刺客に襲われていると書かれているからその頃でもまだ訪れていた様です。
しかし、維盛には影武者が何人か用意されていた様ですから実際に維盛が襲われたのかどうかも解らない。
源頼朝が田辺の別当に命じて本格的に平家狩りの屯所が設けられたのもその頃ではないかと思われます。

本宮の平治川へは一番多くの人が落ちてきていたのですが、その人達が平治川へ水汲みに来て次々切り殺され、計7人の死者が出たそうである。(垣内高彦書より)
人々は泣きながらその死体を久保峠まで運んで埋めたらしいが、後難を恐れて丸石を乗せただけの粗末な墓にした。

やがて色川に平維盛が隠れているのではないかとの噂が広まり1190年には色川宗家が鎌倉へ呼び出される。
次の年には色川衆も呼ばれ源頼朝から直接調べられている。
しかし1191年のときはすでに維盛主従は色川を出ていたということなので(色川文書)1190年夏頃までには色川を出ていたものと推察できます。

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1184年4月に色川へ入って1190年に出たとすると足掛け6年、色川に居た事になりますが、実際の所色川には定住していなかった様です。

それを示す証左として
■熊野市飛鳥町に光福寺建立~1184年(三重県の地名、日本地名大系、平凡社)
■三重県津市一身田に清雲寺建立~1185年(歴史研究家・大平泰氏)
■三重県津市芸濃町に任玉庵建立~1185年(これが成覚寺となる)
■高野山で智覚上人より真言密教を学び当時の金剛峰寺検校の理賢より
「成覚院殿岩間浄圓入道」の戒名を賜わっている。(大平泰氏説)
■龍神・小森谷の屋敷で平景清の妹と婚し、
一子兼盛(上湯川・小松家祖)をもうけている。~1185年
■口色川では1187年に盛広を1189年には盛安をもうけている。

以上の様に、平維盛は各地を廻りながら身を隠していたものと思われます。
維盛は色川では「旅の旦那」という事で知らされていたそうですが、まったくその通りで忙しく動き回っていた事が解ります。

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