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青雲寺

1 青雲寺の成立

三重県津市一身田には、以前より真言宗寺院として存在していたが(寺名不明)無住となって、廃寺の手続きがとられ、金剛峰寺系の金剛証寺の末寺より除外されていた。
西行法師は、第28代金剛峰寺検校の定兼に再登録をしたが、元暦元年(1184年)8月25日に定兼はなんらの手続きをとらないまま死亡してしまった。
この間に西行法師は寺名を青雲寺と改称し、倶利伽羅峠の戦いで死亡した藤原景高(忠清の甥、景清の従兄弟)を失った悲嘆から、死去した父の景家を筆頭に、平家家人の菩提を弔う。また平維盛の従兄弟の平行盛の五輪塔も建てたが、これは頼朝公にはばかり無銘にした。

1184年、志太義広、平田家継ら伊勢での蜂起に参加した平忠清(景清の父)は万一の事を考えて、手紙に遺髪を同封して、維盛に送っていたが、1185年5月に京都で斬首されたのでその髪も平家家人の墓石に納めた。
やがて西行法師の努力が実を結び、青雲寺は第29代金剛峰寺検校の理賢によって新登録された。また、高野山の智覚上人は理賢に、維盛の戒名を下賜されるように働きかけていたが、承諾され、成覚院殿岩間浄円入道の戒名を下賜された。
よって青雲寺開山は1185年後半の頃と思われる。
尚、青雲寺の大檀那(資金提供者)は次の通りである。

○左大臣従一位、藤原兼雅
○右大将右大臣正二位忠経
○正二位中納言家経父子
○権大納言(正二位)四条隆衛
○大納言(正二位)四条隆房室
○左大臣従一位、兼雅室

等である。
尚、源頼朝は、1199年1月に死亡したが、この時、維盛は頼朝より賜っていた無銘の刀(父、義朝の遺品)を金剛証寺に奉納している。
青雲寺という寺名ですが、維盛の末弟に青雲(重遍)が居り、仁和寺僧都となっている。一身田の寺名をつける時、西行法師は維盛と相談して、青雲寺にしたと考えられる。
2 一身田の由来

一身阿闍梨となった維盛が、寺領拡大のため田畑を耕した所、一身阿闍梨の田(畑)が後に所在を表す地名となり、更に語句が簡略化されて、一身田になったと考えられる。(大平泰氏説)
当時、真言宗であった青雲寺は三重郡大連名内柴田村、深田村や三箇山荘、山田野荘を手管していた。
3 青雲寺閉山

青雲寺住職は、初代平維盛、二代目平景清であったが、景清が1214年死亡したので、維盛の子,盛安(26歳)が鎌倉の寿福寺に臨済宗の栄西禅師を訪ねて出家し、臨済宗僧都となった。しかし、翌年7月に栄西禅師が入寂した。また盛安の兄に当たる盛広も1219年に出家し臨済宗僧侶になった。しかし盛安もま盛広も宗派を真言宗から臨済宗に変える程の力量もなく、青雲寺は真言宗のままであった。しかし第五代住職の安清(盛安の子)の時、盛次(維盛の子、兼盛の次男)との間で法燈継承をめぐって、骨肉の争いがおきる。
これは盛次が1236年(26歳)に曹洞宗開祖である道元禅師のいる宇治郡深川の興聖寺に入山し、首座で修学を終えて帰ってきた為である。
この争いは、ついに宗論(臨済宗対真言宗)にまでおよんだ。結局1268年に安清は死亡し、盛次は勝利した様な格好となる
盛次は、青雲寺を閉山し、維盛が、芸濃町河合に建てていた任玉庵を青運寺として開山した。しかし、盛次も1269年に死亡した。(49歳)
以上の事から一身田の青雲寺は五代で絶えたのであるが、それまでの住職は次の通りである。

初代  平維盛  成覚院殿岩間浄円、阿闍梨
二代  平景清  大乗院浄覚法師
三代  盛安   放光院浄神法師
四代  盛広   大光院浄徳法師
五代  安清   宝樹院浄林法師

尚、青雲寺が絶えた時、すでに盛広や盛安、安清は死亡していたので、盛広の子の盛次や、盛安の子の安知(中村右衛門、野口家始祖)は父(維盛)ゆかりの色川の大野に帰って帰農し、郷士となった。
この様に、盛安、盛広、安清の色川三人組で守ってきた青雲寺の法燈が五代で消えたのは、残念であったに違いない。
その無念さを、この色川で晴らしたのであろうか、色川周辺のお寺は皆臨済宗である。
また、青雲寺はこの色川にも、二寺ある。
ひとつは西中の川にあり、もうひとつは古座川奥の小森川にある。いずれも維盛の孫の住んだ所である。
この二寺は、いまでも立派にその役目をはたしている。

01
西中の川の青雲寺

02
小森川の青雲寺

盛次の開基した青運寺は第十二代目住職の時に成覚寺となったが、
歴代住職は次の通り

初代  平維盛  成覚院殿岩間浄円入道
二代  平景清  大乗院浄覚法師
三代  盛次   金剛院浄山法師
四代  盛次の子 清谷院浄閑法師
五代  盛次の孫 清水院浄龍法師
以下略するが、現在は第25代、小松大演氏となっている。
4 人物紹介

○ 平(藤原)景清 (忠清の子)
侍大将、叔父の大日能忍(達磨宗の開祖)を殺害したことで、悪七兵衛と呼ばれていた。(この悪とは強いという意味)。
龍神、小森谷に隠れていた平維盛に自分の妹(富貴)を進上し、兼盛が生まれた。また、異母妹(お妙)を与え、生まれたのが盛広、盛安である。
1184年清水清左衛門と改名、その後痩尾(やせお)吉左衛門、落合左衛門尉盛吉と改名する。
維盛の命にて、1185年2月の屋島合戦、3月の壇ノ浦合戦に参加し、平知盛とその子、知宗を救出。六代が斬られて死んだ1198年には六代の子の清重も救出し、鹿児島に逃がす。
高野山で、真言密教を修学する維盛に心うたれ、自らも真言宗大乗院浄覚法師となり修学する。
1194年春、石堂丸と称していた安徳天皇(17歳)、盛広(8歳)、盛安(6歳)を連れて、栃木県の宇都宮朝綱に三名をあずける。しかし、安徳天皇の行宮にしようとしたのか、尾羽寺建築の際、国領田百町歩を横領したとして、朝綱は朝廷に訴えられ、7月に朝綱は土佐へ、孫の頼綱は大分へ、朝業は山口へ配流になった。
この配流に便乗して、頼綱は安徳天皇を鹿児島か、あるいは硫黄島へお連れ申した。
盛広と盛安は、そのまま栃木に居たと思われるが二年後の1196年に頼朝の知る所となり降参する。頼朝はその際、景清に日向国や、多大の金銀を与えている。
1204年、兼盛が二十歳になった時、正嫡争いが起こり、維盛が生前葬を行い、その遺言として小松姓を兼盛に与え、盛広、盛安は景清(清水清左衛門)の養子となって、ようやく争いは治まった。
景清は1153年3月生まれ、1214年宮崎で死亡。62歳であった。

○ 兼盛
1185年生まれ、父、平維盛、母、富貴(景清、妹)
有田川町上湯川の小松家二代目(初代は維盛)
平頼盛の子、保盛の娘と婚し、慶盛、盛次をもうける。
官位は正五位上、しかし、1221年の承久の乱に関わって解官。
1224年、上湯川で病死、39歳。

○ 盛次
1221年生まれ、
兼盛の次男、幼名、安次郎、金剛院浄山法師
1236年(26歳)に曹洞宗開祖である道元禅師の居る、宇治郡深川の興聖寺に入山、首座で修学をおえる。
安清と法燈継承をめぐって骨肉の争いをするが、1269年勝訴し、青雲寺を閉山し、芸濃町に青運寺を開基する。
落合家始祖である。
源家である久我中院、堀河家と親交し、中院家通方の女と婚し、一子をもうける。その子が青雲寺第四代住職になった、清谷院浄閑法師である。
1269年死亡。49歳。

○ 盛広
1187年、奈良県吉野郡川上村、金剛寺、または那智勝浦町二河(にこ)の金剛寺で生まれる。
父は平維盛、母はお妙(景清、異母妹)
幼名、小ノ麿、清水権太郎となっているのは景清(清水清左衛門)の養子となった為
清水家始祖である。
1219年(33歳)出家、臨済宗僧侶、大光院浄徳法師
1233年、盛安死亡により、青雲寺第四代住職となる。
1244年7月18日死亡、58歳

○ 盛安
1189年、盛広と同じ金剛寺で出生
幼名、松ノ麿、景清の養子となり清水小次郎となる。
水口家始祖
1214年(26歳)の時、臨済宗開祖の栄西禅師を鎌倉に訪ね、寿福寺にて出家、放光院浄神法師
青雲寺、第三代住職となる。
1233年6月10日青雲寺で死亡、45歳

○ 安清
1219年生まれ、盛安の子
木下権次郎、木下家始祖
青雲寺第五代住職、宝樹院浄林法師
1268年9月19日青雲寺で死亡、50歳

○ 西行法師
1118年生まれ、俗名、佐藤義清
鳥羽天皇に仕え、官位は従五位下
和歌にすぐれ、全国を旅する。1140年(23歳)出家し、1149年高野山に登る。
1181年伊勢の二見浦に近い安養山に草庵を結び、1186年、東大寺大勧進のため、藤原秀衛を訪ねるまで住む。この間、維盛に真言密教を教える。
1184年には、維盛と共に青雲寺を開山。
頼朝に和歌や弓、馬の技法を教えている。
1190年死亡、73歳

○ 栄西禅師
1141年生まれ、
臨済宗開祖
1199年(頼朝が死亡した年)頼朝の妻の北条政子に帰依を受け、寿福寺を建立。
頼朝の一周忌の導師を勤めたり、政子の伽藍建立をするなど、鎌倉に縁が深かった。
後に、京都に建仁寺を建立。
1215年死亡、75歳。

参考文献
成覚院殿岩間浄円入道と其の一族(大平泰、高松井、佃野芳朗、共著)
小松氏系譜(有田川町上湯川)