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高川原家

平維盛が色川潜伏中に村娘に産ませたのが光盛である。

村娘が誰であったかは解っていない。下里出身の浜光治氏は、その書の中で高川原家(古座)の娘に産ませたとしているがその証拠はない。又、私の本、「どっこい維盛生きていた」の文中でも維盛が高川原家に遊びに行き、その夜同家の娘と一夜を共に

して光盛が生まれたとしたが、これはあくまでも小説上の事である。

しかし、平維盛が古座へ立ち寄った事は考えられない事ではない。

その証拠として古座川の峯という所には維盛の子、六代が建てたとされる「薬師如来堂」があるし佐部には維盛が植えたとされるムクロジの巨木がある。

その事から維盛が古座あたりで六代と会いその時、宿泊した所で村娘を孕ませたのではないか、そしてその帰りに佐部でムクロジの苗を植えたのかもしれない。

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↑六代が建てた薬師如来像の内部

(1)光盛の隠れ里

光盛の生まれたのは1190年頃と推測する。

その理由は2つある。

□その1つは新宮の堀内軍と維盛の子孫である清水家や高川原家が戦ったのは1582年前後であるが、その時の清水家は第16代盛直であるのに対し

高川原家は第15代貞盛である。

大体、昔の家系では1代27年で代わっているので、単純に考えても清水家初代の盛広より先に生まれているとは考えにくい。

又、清水家は盛広を初代としているが高川原家は平維盛を初代としておりこの点も入れれば2代の開きがある。

従って1187年生まれの盛広より後に生まれていると考えるのが妥当であり、維盛が色川を出たとされる1190年頃となる。

そしてどこに隠れ住んだかと云えば、私の生まれ故郷である西中ノ川である。

西中ノ川は川下から小色川・平瀬・森・奥中ノ川と四つの部落から成っているが、その内の小色川という所に「上屋敷」というところが在る。

西中ノ川トンネルの二百メートル位川下で細野家のあった所である。

そこには1メートル位の高さで石垣を積み、5坪位の広さの墓地があり、自然石の墓石が七個程転がっている。その事から3代目位までそこに住んだと思われる。その墓は明治時代後期に山を切り崩して道を付ける際、丸山家の後の丸山(小高い山)へ移し、現在に至っている。img_02

↑光盛の住んだ(上屋敷)

光盛の墓の横にはミサオ姫の墓も並んであるが、これは1601年丸山家がここに移り住んだ際、ミサオ姫の墓を奉じてきて、ここへ祀ったのであり、光盛の妻という事ではない。

そこには案内板も立っており、墓に登る遊歩道も出来ているのでそこを通った際は、立ち寄って手を合わせてやって欲しい。

丸山家には古い木札があり「平光盛がこの地に来て住む。ある時、椎の川を渡る際、藤原家に打たれて死ぬ」と書かれている。

しかし、光盛は行盛という子をもうけているので、結婚後に打たれたのであろう。

椎の川とは椎の木平から流れてきている川で、今熊谷と云われている川だと推定する。img_03

(2)屋敷

その「上屋敷」から熊谷を渡り、山の尾根を登り、山道を約1時間歩いた所に「屋敷」と呼ばれる所がある。

今、尾後坂の坂本家の杉山であるが、広いなだらかな斜面のところである。

この様な山中に「屋敷」とは不似合な地名なので私はたぶん光盛の子孫が何代かここにすんだのではないかと推察する。

そこは南側に「仙人場」という滝があり、天然の要害になっている。

小色川と小匠の中間あたりの山中で隠れ住むには絶好のところである。

(3)小色川と深草神社

小色川という地名は盛広や盛安の住んだ口色川に対して付けられた地名で光盛が住んでいたからこそ小色川になったと推測する。

この小色川には深草神社があり、口色川にも昔は深草神社があった。口色川のは京都の深草神社から寄進されたもので維盛の子孫が住んでいる故に寄進された。

代々清水家が祀ってきたものである。

小色川の深草神社は口色川の深草神社から分祀されたものであろう。

口色川のは今は色川神社に合祀されているが小色川のは一時合祀されていたが今は取り戻してきて小色川に祀られている。

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(4)宝物伝説

光盛の住んだ「上屋敷」から下へ二百米位行った所に深草神社はあるがその横に「金比羅宮」が昔あった。

そしてその横に昔は大きな槇の木があり「夕日照る朝日輝く槇の木の下に小判千両・・・」という。宝物伝説がある。

大正から昭和に生きた尾後坂の坂本亮一氏が「熊野誌」第35号に上田幸一氏との対談で次の如く話している。

「深草神社」の南側に「金比羅宮」を祀っていたがその横に槇の大樹が生えていて大きな木だったが、今は惜しくも枯れてしまった。

根元は網の目の様に根が分かれていて私の幼い時はその根の間を抜けて遊んだ」

所で、その宝物が本当に埋まっていたかどうかですが、私は埋まっていたと判断する。

なぜなら平維盛の子及びその孫あたりまで宝物伝説があり、実際に掘り出した家もいくつかある。

光盛は維盛の子であり宝物の分配を受けていたと考えるのが妥当であるし、その子孫の第15代、高川原貞盛は、古座に虎城という城を築くなどしているので財はあったと見られる。

昭和の時代にその槇の木の辺りを掘った人も居たそうだが何も出てこなかったとの事である。

恐らく、光盛の子孫が古座へ出るまでの間に掘り出したものと思われる。

(5)家系図

古座中湊の清原寺にある「高川原家系図」を提示し郷土歴史家の中根七郎氏の解説で説明する。

平 維盛 → 光盛 → 行盛 → 重盛 → 久盛 → 範盛 →弘盛 → 源阿 →

李盛 → 祐盛 → 安盛 → 亮太郎→遠盛 → 元盛 → 貞盛 → 家盛→以下略

□最初は小松姓を名乗っていた。

□三代目行盛までは「上屋敷」に住んでいただろう。

□四代目から六代目範盛まで「屋敷」に住んでいたと推定される。

□七代目の弘盛か八代目の源阿の時に熊野沿岸の警備に当たっているのでこの頃、古座へ出たと考えられる。

□古座に住んでした塩崎氏は1336年~1370年頃に家勢が衰え代って高川原家が台頭してきた。

□1392年10月の後亀山天皇が奈良・吉野から京へ御帰還の時は熊野八荘司の一人として高川原氏もその陣に加わっている。これは八代源阿か九代李盛であろう。

□第15代高川原摂津守貞盛が有名であるが、この摂津守の称号は織田信長の家臣である滝川一益軍に属し、軍功があったので織田信長より贈られたものである。

□1570年からの石山本願寺と織田信長との戦いでは奥熊野、古座の小山氏、根来寺僧徒、雑賀党と共に本願寺門主顕如上人側に加勢している。

この戦いは10年間続き1580年に和解している。

□貞盛は又1583年の新宮堀内軍との合戦で勝利している。

□第16代家盛は熊野七人士の一人で、堀内軍の傘下で朝鮮の役に出兵、竹島にて戦功あり、秀吉より誉められている。

しかし1600年の関が原の戦いでは大阪方の石田三成に味方して破れたのでしばらく浪人する。

□高川原家は第25代貞統まで続いたが貞統に子はなく絶家となる。しかし分家の人で新宮城主の浅野忠吉について広島へ行った人や、大阪・東京・北海道へ渡った人については家系が続いている。

□貞盛の墓は古座・正法寺にあったが崩土で埋まった。

□家紋は角折敷(すみおしき)に揚羽蝶。

(6)虎城

古座の中湊に青原寺があるがその少し上に平地があり、ここに高川原摂津守貞盛の築いた城があった。

これを虎城という。

虎の字を用いたのは平家の家宝は桓武天皇より受け継いでいる虎の皮を使用した鎧であったのでそれによるものであろう。

今は城もなく一面の草原となっているがそこよりの眺めは又格別である。

海近くに突き出た山上であるので太平洋が一望出来、大島は目の前である。そこは東・南・西側が絶壁、あるいは急斜面であり、要塞としての城を建てるには絶好の所である。

その城が取り壊されたのは第16代家盛が関が原の戦いで石田三成に組みして敗戦となったので徳川家により取り壊された(1600年頃)

その城跡の少し下には今青原寺が建っている。

(7)佐部合戦

新宮の堀内軍は1581年4月末に浜の宮の勝山城に籠もる廊の坊を落とした。

更に同年と次の年の二回色川攻めをするが清水盛直以下、老若男女、一致団結してこれを防いだので落とす事は出来なかった。

古座には高川原貞盛が虎城を築いて幡居しており、堀内の南下を拒んでいたが、堀内は石垣、米良を従えて、下里の金剛山にたてこもる政所氏、土井の城で反抗する土井氏などを蹴散らかして田原佐部を手に入れた。そして佐部城を築城し、椎橋新左衛門に守らしめ、後詰めとして泰地五郎兵衛を太地に据えて防御の万全の策をとった。

時に天正十二年六月二十八日(町史による)、高川原氏は古座の小山氏、日置の安宅氏、田辺の目良氏等の応援を得て、佐部城を攻撃した。

しかし、城将、椎橋は百戦練磨の武将であるので隙を見せて寄せ付けておいては奇襲するので高川原軍は攻め倦んでいた。

ここに高川原の部下で浅利平六という若者が居た。彼は軍中でたった一挺の鉄砲を持っていたがふと城中を見ると敵の大将の椎橋はやぐらに上って鬼善五郎と銘打った長い刀をこれ見よがしに、振り廻して弓矢の射程外と心得て采配を振るっている。

これを見た平六「しめた!」とばかり六匁玉をこめてただ一発ぶっ放した。

椎橋はもんどり打って転落した。これを見た目良一族の下芳養の善五郎、西向の小山与十郎同四郎左衛門の三人は一挙に城内を突破するや続々と城に入り込み、たちまち三百人余人の城中の男女をただ一人も残さず切り殺した。

太田や下里の兵が多かったというから、この時すでに滅ぼされていた政所や土井氏の部下が先鋒隊として城中に放り込まれていたのだろう。

その死体は城内の井戸に投げ入れられたそうだが、椎橋大将はじめ部下二十七人の墓は城の周辺に散在しているという。

この戦いで下里川(田原川のこと)より西は高川原が支配し、川より東は那智領となった。

この戦いで一つの不思議に思う事がある。

それは堀内軍三百余人の死者に対して高川原軍の死者はどの書を見てもただ一人も記されていない。

これはどういう事であろうか。

私は次の様に考える。

佐部城中に居たのは、太田や下里の兵が多かったという。

元々太田はその昔、平維盛やその子光盛を隠れ住まわせた地である。

又、下里は、平維盛の子の維忠の子孫である下里家の住む村である。

相手である高川原貞盛はその光盛の子孫であり古座は近接地であり、高川原家とは懇意にしている人も多かったに違いない。

だから下里や太田の人達から見れば高川原氏は「わがらの親分」であり「わがらの大将」である様な存在であったと想像する。

だから高川原氏に対して弓を引いたり、刀を振りかざしたりする事に躊躇したのではあるまいか。
その様な心理状態での戦いであったから下里、太田勢は易々と斬られ高川原の方に死者が出なかったものと判断する。
いずれにしても戦いとは悲惨なものである。