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平資盛

平資盛は維盛の弟であり、1183年、平家西走の折、一族と共に西国に逃れた。
1184年、岡山県児島で源範頼の大軍と戦って敗れた後に河内国へ退いていたが、その後伊勢から、十津川、玉置山に入り、玉置高虎と改名し、その子を県内各地に住まわせた。
この事から県内各地に玉置姓が広まった。

生年 1158年又は1161年
正室 藤原基家の娘
側室 建礼門院右京大夫
官位 従三位 右近衛権中将

1.乗合い事件
資盛で有名なのは、都大路での乗合い事件である。
資盛が10才位であった。
1170年7月、女物の車に乗った資盛は、法勝寺八講へ向かう関白藤原基房の車駕に行き合った。
しかし、資盛一行は道を譲らなかった(又は下馬しなかった)事に基房の家人は怒り、資盛の車を壊した。
父の重盛は我が子資盛を戒める為、伊勢国、鈴鹿郡、久我の庄に配流した。
しかし、重盛は我が子だけにその罪を負わせたのではない。
その3ヶ月後の10月に家人を使い、その報復として藤原基房邸を襲撃している。
喧嘩両成敗というところである。

さて、伊勢へ流された資盛であったが、おとなしく謹慎生活をしていた訳ではない。
土地の豪族の娘と恋し、ちゃっかり盛国という子をもうけている。
その盛国からは後に名流関氏が発祥し、関氏からは戦国の風雲児、北条早雲や鳥取県黒坂藩主の関一政が出ている。

2.平資盛の戦歴
(1)1180年5月
以仁王(もちひとおう)の挙兵に際し、伯父の知盛、重衡、兄の維盛らと共に出陣し、源頼政と宇治平等院で戦い、これを滅ぼした。

(2)1180年12月
知盛と共に近江国へ出陣して山本義経を破る。

(3)1184年2月
資盛は弟の有盛、師盛らと7千名の陣を兵庫県三草山に置くが、源義経1万~2万の軍勢に夜襲され敗北する。

(4)1184年12月又は9月(藤戸合戦)
資盛、忠房、景清らは岡山県児島で源範頼の軍、約3万人と戦い敗北。
この藤戸合戦が資盛にとっての最後の戦いであったのだろう。
この時すでに兄の平維盛は屋島より逃れ、紀州に来ていた。

3.加計呂麻島の資盛

1202年(又は1205年)資盛は喜界島の志戸桶に上陸、平家森という所に7つの城を構えた。
そこに3年間居た後、加計呂麻島(奄美大島隣り)に渡る、同島には資盛を祀る大屯神社が残っている。

しかし加藤賢三著の「幻の平家物語」では、上記年代より早く鹿児島の硫黄島に上陸しています。
氏は、同島の安徳天皇の後裔を名乗る、長浜家に伝わる古文書から引用して、
「平家一族は1185年、3月15日(壇ノ浦合戦の9日前)夜にまぎれて長門(山口県西部)を脱出、同行者は平資盛、時房、経正、業盛、清房、知邦、宗親、忠綱、通正、佐内侍、狭佐内侍の平家一族及び侍大将、雑兵等、約千名。
翌16日、四国の高島で用意していた小艦約900隻に分乗する。四国行の人はここで降ろす。
日向灘を南下しつつ、各港で人々を降ろし、硫黄島に着いた時は約300名となっていた。
これが本当だとすると最初に上陸したのは硫黄島で、次に喜界島、その後、加計呂麻島ということになる。

4.玉置氏のルーツ

資盛はその後、河内国に来た後伊勢に来る。そして晩年には十津川の玉置神社へ入っている 。
それを示す「吾妻鏡」「玉置神社権現縁起」「新宮市西川家古文書」「河合天神由緒」がある。
これ等は年代に違いは見られるものの、移動した場所については合致している。

これをまとめると、
資盛は河内国に於いて、梅谷36郷の当主でしばらく居たが、伊勢の朝明郡(四日市の北部)に立ち退き牧田庄、大杉里原の館に居住し、16郡を領知する。
ここに長男、市正(又は直正)を残し、十津川の玉置山に来て玉置直虎と改名する。
二男直行は日高郡和佐の手取城城主となる。
三男直次は玉置山の惣地頭となる。
四男直弘は資盛と共に寒ノ川、杉の瀬に隠居し順公庵に住み、河合天神を祀る(これが後の松雲寺となるが現在は無い)
尚、玉置直虎と改名したのは、資盛ではなく、長男とする説や孫であるという
説がある。

この様に資盛は玉置姓を名乗ったので、奈良や和歌山県に玉置姓は広まった。
その分家に坂本家・渕上家・西川家等がある。

5.織田信長のルーツ(「伊勢平氏の系譜」横山高治著より)
平資盛が京より西走する際、その妾が妊娠していて妾を近江の津田家へ(実家)帰らせる。
そして、生まれたのが親実である。
その親実を越前(福井県)の織田明神の神官が養い養子としたので織田姓となった。
親実から8代目の常昌が越前と尾張を支配する守護の斯波氏の重臣となり、後に織田氏は尾張の守護となるが、その一族から信長が誕生した。
これは親実から数えて14代目である。
この様な事から織田信長は自らの文書や社寺へ寄贈の鐘などに平信長と記した。
尚、弟の信益が津田源十郎と名乗っているのは、先祖である平資盛の妾が津田家の出であったゆえであろう。

6.元弘の乱(1331~1333年)
元弘の乱の時、父の後醍醐天皇と共に護良親王は鎌倉幕府を倒すために挙兵したが、敗れて大塔村から十津川へと落ちてきた。
その時、玉置庄司が護良親王一行の進路を阻んだのは有名は話である。
この時、玉置庄司は幕府方であったものと思われる。
話はこうである。
護良親王の一行32人は中津川に差し掛かった時、玉置庄司の一行5~6百人が立ちふさがる。
その頃足利尊氏(たかうじ)から古座の小山一族に「楠木正成と護良親王を討ち取れ」との命令書がきていのるで、玉置庄司はこれに応呼したのであろう。
多勢に無勢、しかし相手は討ち取る気でやってきているので戦わざるを得ない。
護良親王らは刀の柄に手をかけた時である。
向こうの峰に大勢の騎馬隊が現れた。
そして、玉置庄司一行の前に立ちふさがった。
中辺路近露の野長瀬六郎、七郎一行の3千余騎である。
「お主らは玉置庄司の一行と見た。我々は護良親王を擁護するために駆けつけた。
ここを通さぬなら、戦う他はあるまい」野長瀬六郎は呼ばわった。
玉置庄司はあまりの敵の多さに勝ち目は無いと、我先にと退散していった。

さて、この戦いで野長瀬一族は3千余騎と多いが、この軍中に色川の清水軍がいたかどうかですが、「清水家伝記」に(元弘、建武の際、平盛氏(もりうじ)なるものあり。後醍醐天皇、護良親王の旨を受け、一族郎党を率いて官軍に味方せり)とあるので、参加していたのかもしれない。
尚、その後、鎌倉幕府は滅亡し、建武政権が誕生し、護良親王(大塔宮)は征夷大将軍となったが、足利尊氏により、鎌倉に幽閉され、足利直義に殺害された。
1335年、死亡、28才であった。
この事が原因で後醍醐天皇、楠木正成対足利尊氏の対立が起き、南北朝の争乱期に突入していった。

7.玉置縫殿(『熊野よいとこ』浜畑栄造書より)
玉置縫殿は本宮の社家である。
彼の住家は明治22年の水害で無くなったが、この時の水害復興工事に用いた石のほとんどは屋敷跡のものであったといわれるほどの大邸宅であった。
和歌山の新地にも広大な邸宅を構え、邸内に那智の滝を模したものを造り、水を岩上へ上げるのに水車を用い、石もわざわざ熊野から運ばせている。
夏は20畳の間に紗の蚊帳(かや)を吊り、京都、大阪から芸妓を呼んで遊び、冬は砂糖の湯につかって温まり、贅沢三昧の生活をした。
性格は豪放で、人に城壁を設けず、どんな男でも彼になついた。
ある年、江戸へ向かう途中、箱根に差し掛かった。
「檀那、大変重いようですが」と駕籠かつぎがいうと、「重いはずだ、懐に小判が二袋もある。そんならお前ら一袋ずつ持ってくれ」
といって雲助に金を渡して、自分は高いびきで箱根を越えて行った。
又、ある年、彼は和歌山藩公に砂糖で鯛を作って献上した。
このあまりの見事さに藩公は将軍家慶に献じた。
家慶はこれを愛妾のお広の方に与えた。
お広の方は政敵、新宮城主水野忠央(ただなか)の妹である。
お広の方がこの菓子を割ってみると中から大判小判がざくざくと出てきた。
これを「縫殿に意図あり」と勘ぐられて、終に新宮藩に預けられる身となった。
文久元年(1861年)10月死亡(76才)
この他にも「玉置某氏は十津川の街道でお金をばらまきながら歩いた」という伝承も残っており、とかく玉置家には長者伝説が多い。
これは金持ち平家の平資盛がたんまりお金を持ってきた名残か、又は玉置神社、本宮大社の上りを蓄財した結果だろうと思う。