坂本顕一郎研究サイト    

平頼盛の子孫

熊野地方には平頼盛の子の保業の子孫があります。
潮崎、塩崎、汐崎家がそれです。
家系図で示すと次の様になります。

kakei01

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平頼盛一族は1183年7月の平家西走の折も同行せず京に残っていた。
しかし、1221年承久の乱の時、頼盛の孫に当たる保教が京方として参加した為、京を追われ、潮崎の庄(今の潮岬)に上陸してきた。
紀伊続風土記、牟婁郡、潮崎荘の項には次の如く書かれている。
承久3年、源氏方、鎌倉の北条泰時が京都へ乱入時、平保業を京方なりとして罪を負わせて紀州に流す。
その子保定、地名の潮崎をもって姓とした。
又、同風土記、日高郡、小池荘、入江村の項には、保定は那智山廊の坊の養子となり、浜の宮に居城す。
次男の塩崎左京亮保則は塩崎荘を領し、古座、高川原村に住すとある。

当時の那智山は、廊の坊の尊勝院と別当系の実方院とで勢力は二分されていた。

では、平頼盛一族だけが、平家西走に加わらずに京に残っていたのだろうか。
それは、頼盛の母である池の禅尼が、源頼朝の命を救った事にある。
説明すると、1159年12月、藤原信頼と共に、源義朝(頼朝の父)は内乱を起こす。
これを平治の乱という。
しかし、平清盛率いる平家軍に敗れ義朝は死亡。その時14才であった頼朝は12月で雪の降る伊吹山中をさまよっているうちに平家軍に見つかり京へ連れて行かれる。
清盛は頼朝を殺すつもりでいたが、父忠盛の妻である池の禅尼にさとされ、翌年の3月に伊豆へ配流とする。
この事から頼朝は、池の禅尼を命の恩人として扱い池の禅尼の子である平頼盛に対しても危害を加える事は無いと約束していた。
そのような事情から、頼盛は平家西走の折、その中に加わらなかったのである。
1183年11月には頼盛は鎌倉へ呼ばれ、頼朝から手厚いもてなしを受けている。
しかし、その頼盛も1186年6月には死亡した(55才)。

1230年頃より那智三党の一人としてあれほど勢力を誇っていた潮崎家(廊の坊)がなぜ滅んだのであろうか。
一口でいえば、新宮の堀内氏に滅ぼされたのであるがその戦いについて以下に記す。

堀内氏善氏は新宮から佐野、宇久井まで手に入れていた。
一方、廊の坊は浜の宮に勝山城を構え、浜の宮から天満、湯川、二河までが領土であった。
堀内氏はその勢力拡大をはかり、勝山城を落とす計画を立てた。
まず、氏善氏は自分の末子(四男)道慶を実方院(川関、藤倉城)に養子に入れ血縁を結ぶ。
それに対して色川の清水家の第16代盛直は自分の妹を同じ平家の出である廊の坊に嫁入りさせ同盟を結んでいた。

天正9年(1581年)2月から堀内氏は勝山城攻めにかかる。
この時、廊の坊は古座の高川原家(平維盛の子光盛の子孫)にも応援を求めたので高川原家は船30艘を出し、浜の宮から上陸して勝山城の兵と協力して防戦していた。
色川、清水軍も援軍を出し、実方院を攻め、ついで廊の坊を援助するつもりで勝山城になだれ込んだ。
このどさくさに紛れて堀内軍の密偵が城中に入り城に火をつけたのである。
4月29日、とうとう勝山城は炎上し、廊の坊夫婦は湯川の梅ヶ谷に落ち延びた。
ところがすぐに追っての侍が来て、近所の農家の奥兵衛の婆さんに尋ね、婆さんは恐ろしさのあまり、廊の坊の隠れ場所を言ってしまった。
それを聞いた川関、蚤ヶ城の城主、浄巌坊が廊の坊を討ち果たした。(4月30日)
この時清水家は廊の坊の娘、2才の子を色川へ取り戻し、田垣内の水口権之丞に養育させた。

後になって奥兵衛さんは廊の坊一族の取調べを受け、打首になった。
その時奥兵衛さんは「来年から正月に餅をつけば餅の中に血が混じるぞ」と言って死んだという。
その翌年から正月餅をつけばその言葉通り、血に染まったという事から、二河、湯川、橋の川では正月餅をつかず、替わりにオコワ(御強)を供え、1月15日に餅をつき、裏正月として神前に供える風習が残っている。

尚、旧那智史年表によると、天正15年3月、廊の坊追善祈祷の火が原因で、二河温泉寺が焼けている。
これも奥兵衛さんの怨霊であろうといわれている。

又、廊の坊が殺されたのは4月30日であるが、その5日後の5月の節句の晩に浜の宮に大きな光物が現れたという。
これは、廊の坊の怨霊がそうさせたのかと人々は武将の最期を哀れんだ。

奥兵衛さんの墓は、湯川の「さくらが丘」から入り、300m位入った左側山手にあります。

又、廊の坊の墓はそこから更に150m位進んだ山中にあります。
潮崎家の人達が時々お参りにきているそうです。

天正9年6月、堀内氏善氏の裁断により、廊の坊の世襲は実方院に移された。
更に20年の歳月の後、清水盛直はその娘と廊の坊の弟の神光坊重友の次男である重伝を結婚させて、廊の坊の家督を取り戻すべく、新宮城主の浅野忠吉に調停を依頼したが成らず。当時大和守であった豊臣秀頼公に依頼し、ようやく家督は汐崎重伝に引き渡された。

この時に汐崎姓を用いたので、今までの潮崎(浜の宮)、塩崎(古座)に加えて、汐崎の三様の姓が出来たものと考えられます。

尚、天正9年の堀内軍の勝山城攻めの時、湯川の二河の上地一族は、領主の潮崎氏に加勢しなかった。
この事に腹を立てた色川の清水家は天正11年、上地一族を攻め、全滅させた。

参考資料
○町史研究紀要(第2輯) 二河の伝承と古文書 清水和夫
○那智勝浦町史(上巻)P271~ (史料編1)P239~