坂本顕一郎研究サイト    

序文

熊野地方には、平家の落人が多い。100名くらいはあろうかと思われる。
その中でも特筆すべきは、平家の若大将であった平 維盛である。
入水すると見せかけて那智勝浦町の色川に隠れ、その後竜神から伊勢にかけて
住み分けながら多くの子孫を残した。

この事は私の著書「どっこい維盛生きていた」に記したが、これはその粗筋であって、書き記せていない事が多くある。

又、維盛の子孫達は色々な面で活躍している。武人になった家系ではそのときの天皇や王達を護って戦ったり、又、他地からの進入勢力に対しては一致団結して戦い、一度も負ける事は無かった。
これは、この地方の平家の落人達が共に協力して防戦した結果であり、あの惨めな壇ノ浦の戦いの憂さを一気に払拭する戦いぶりであったと言える。又、商人になった人はその藩を代表する程の豪商となっている。この様に平維盛やその他の落人達の子孫は、それぞれの立場で世の為、人の為に生きた証があり、多くの人にこのことを知ってもらいたい。

又、維盛の弟の平資盛は史書では壇ノ浦の戦いで死亡したとなっているが、実はそうではなく岡山県の藤戸合戦で敗れた後、河内に退いていたが、後に十津川村の玉置神社に入りその子を、それぞれ玉置家としてこの近郊に配したので、多くの玉置家が誕生した。

又、平頼盛の子孫は承久の戦いで京を追われたが、串本の潮崎の庄に上陸し、潮崎、塩崎、汐崎姓を名乗り、この地方の豪族となった。

このような事は全国的にみて、どれだけの人に知られているだろうか。

いまだに平維盛が那智沖で入水して死んだと思っている人が多いのではないだろうか。なぜこのように「平家物語」に書かれたかについては、私の本「平維盛の真実」を読んでもらえれば解りますが、ここでは平維盛及び、その他の落人のその後について記すことにします。