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神内

1、竹内家

いまは新宮に出てきているが、三重県紀宝町神内の主ともいえる、竹内家がある。
神内周辺に山、百町歩、田、十町歩をもち、一時代を築いた家である。
初代は竹内寛十郎といい、平家の落人である。彼は仲間七人と共に神内へ落ちてきたが、皆、侍大将クラスの人たちであつたという。
彼らは竹を使って製品を作り、新宮へ出して生計をたてた。
同じく、源氏で神内へ落ちてきた人達もいる。
当時、神内は沼地であってフクイ(イ草の仲間)が生えていたので、源氏の方はそれを刈り、畳やむしろを作って生計をたてたそうだ。だから、平家の人が、フクイを刈りたいときは、源氏の人を一人たててお願いに行き、反対に源氏の人が竹を切りたいときは平家の人を立ててお願いに行き切ったそうである。
お互いに、戦いに敗れて落ちてきた者同士、刃を交えることは無かったそうだが、今でも選挙になると、源氏と平家方に分かれ、夫婦であっても分かれて争うそうであるから怨念とは怖いものである。
竹内寛十郎と共に落ちてきた人々に、更谷、前田、南地、荘司(しょうじ)内野、福島、の各家があり、各家が、お寺を持ってきた。といっても京からお寺を解体して運んで来たのではなく、ご本尊を持ってきてこちらで寺を建てたと云う事であろう。その寺跡は旧屋敷に残っている。
しかし、今はそのお寺は皆、神内の善光寺に合祀されている。

2、平治の乱

平家の人たちは、姓をもって落ちてきたのに反して源氏の人たちは姓が無かったので、明治の初めになって姓をつけるときに、その人達の住んでいる字名を姓にしたそうだ。
だから姓と字名が一致している。次の15名である。
門地,下沢、上前田、矢熊、田端、川原田、竹鼻、猿口、阪本、赤土(せきど)、田尾、大川、田中、尾崎、久保田、
では、源氏と平家、どちらが先に落ちてきたのであろうか。源氏が先だそうである。
神内の阪本家(旧姓坂本)の古文書に、「平治の乱で新宮十郎行家(源行家)と共に落ちてきた。」と記されている。
平治の乱といえば、藤原信頼と源義朝(頼朝の父)が起こした内乱で1159年12月である。しかし平清盛率いる平家軍に敗れ、義朝は家来に斬られて死亡、頼朝も平家に捕らえられた。京へ連れて行かれた頼朝は平宗清のもとで時を過ごしていたが、やがて斬られる事になったとき、宗清は頼朝を哀れみ、池の禅尼(頼盛の母)を通じて清盛に助命を哀願した。清盛は二人の意向をくみ、伊豆への配流を決定した。
この事から、頼朝は宗清と池の禅尼を命の恩人として、その後、宗清が平家西走となった時、使者をおくって「手厚くもてなすから、鎌倉へ来るように」と伝えている。
しかし、宗清はそれに応じず、最後まで平家と共に戦い敗戦後は、石工となって、一の谷の合戦で死亡した敦盛(あつもり)の供養塔を各地に刻んでいる。
その供養塔は南部町の鹿島(昔は鹿島神社は鹿島にあった)にもあるし、実はこの那智にもある。
井関と市野々の間、旧道の山側にある「荷坂の五地蔵」と云われているのがそれである。
平敦盛は一の谷の合戦で、平家の船に乗るべく、海中に馬を進ませていた時、熊谷次郎直実の呼ぶ声がしたので、馬を返し、直実に斬られた人である。
「敵に背を向けては恥」という武士道の精神を最後まで貫き、死んでいった平家の武人であり、紅顔の美少年であった事から、その哀れさが日本人の心をうち謡曲などにとりあげられて有名である。
この様に「荷坂の五地蔵」は歴史を秘めた建造物であるから、皆さんで大事にし、そして供養の手を合わせてやってほしいものだ。

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荷坂の五地蔵

さて、話は大分、横へそれたが、その「平治の乱」に当時18歳であった新宮十郎行家も参加しており、源氏は大敗したので、行家は家来と共に新宮へ帰ってきた。その時に同行して来たのが、前記した源氏の人々で神内に住み着いた
だから、源氏の人達が神内へ来たのは1159年であり、後から来た平家の人達は1183年(推定)であるから、24年の差がある。
24年も経過していると、源氏の人達は、すっかり土地に落ち着いていたであろうが、そこへ平家の人達が来たときは、どんな気持ちであっただろう。争った伝承も無いことから、源氏の人達も渋々ながら認めたのだろう。
しかし、その数年後に本宮の萩へ平家狩りの屯所ができて、平家狩りが行われた時はどうであっただろう。私の推測では、源氏側の代表である坂本氏(現阪本氏)が仲介をして「私達が責任をもって監視するから」と云う事で、お咎めなしとなったのだと思います。

3、四角い竹
神内の旧竹内家屋敷には、四角い竹が生えている。四角いだけでなく、節のところにイボイボがあり、まったく珍しい竹である。「四方竹」と云うらしいが、ハチクよりも細い。竹内家は、京から来るとき、この竹を持ってきたと云うことなので、京でこの竹が生えている所が解れば竹内家の出身地が解るはずである。竹内の姓はこの竹からとったものであろう。

4、神内神社
神内の奥にあり、祭神は天照大御神、他に四尊ある。
祭日は、2月17日、10月17日、11月28日と年3回ある。
由緒は
「古来、近石という所に逢初(あいぞめ)の森があり、イザナギの命、イザナミの命を天降らせ、一女、三男を産み給う。よってこの地を神皇地と称す。いつの頃からか、神内村と改む」
とあるから、神内は、古代よりの歴史のある村ということができる。
(近石とか逢初の森というのは、神内神社のある所の字名です。)
尚、イザナギの命、イザナミの命が天降ったのは烏帽子岩といつて神内神社の手前、古神殿の前にあった。大正時代に上部は壊されてしまったが烏帽子の形をした高さ10メートル位の岩であった。今、下の部分だけが残っている。由緒ある岩なので壊されたのは非常に残念である。
神内神社は子安神社とも云い、昔は大変賑わった。子供が生まれる前には安産祈願に行き、生まれた後にはお礼参りをするのが普通であった。
安産祈願の時は神前で目をつむって石を拾い長い石であれば男の子、丸い石であれば女の子が生まれるといわれていた。また、お礼参りの時は二つ石をお返しするのであるがその時、神殿に寝かせて、その児が泣き出すまで抱き上げなかった。
母の話では、私もお礼参り連れて行ったと云う事なので、電車もバスも無い時代にあんな遠くまでよくも行ったものだと、昔の信仰の深さに驚かされる。

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神内神社

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烏帽子岩、下部だけが残っている
5、古神殿
古神殿とは、古代の神殿のことで、神内神社の手前、竹鼻電気の建物の山側にある。
二つに割れた岩の間に3~5メートルの空間ができている。
ここは神のお告げをする場所であり、最近、宗教人類学者の植島啓司氏がここを訪れ、ここはすごい所だと示している。
氏によれば
神託を言い渡す巫女(みこ)は禰宜島(ねぎしま)に住み、沼地を避けて(当時神内は沼地であった)山側の道をこの神殿に通い、岩の中で神のお告げをする。人々はそのお告げを受けながら、農をしたり、猟をしたり、また、ある人は行に出て行ったりして、生活していたとのことである。
氏も云っておられるが、その岩の間に入れば、女性の子宮に入った様な感じがして、正に万物を生み出す力が湧き出る場所だと云っている。
この様に、神内という所は、イザナギ、イザナミの命降臨といい古神殿といい、歴史的に貴重な所なので、紀宝町としては「古代体験ゾーン」として売り出してはどうだろうか。

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古神殿

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禰宜島、神内の道谷にあり

6、神内の竹槍騒動
神内は昔「神皇内」と呼ばれていた。それが、明治の初めの神内騒動によって「皇」の字をとりあげられ、「神内」となったそうである。
神内騒動とは次のような事件である。
明治6年、政府は満20歳になったら、男子は全員徴兵検査を受けなければならないという政令を出した。すると、国民の中から、政令に対する不満が続出したのであるが、神内住民もお寺へ集まって、それが実施される時、どう対応するか協議していた。そこへ、相野谷の的場甚作という人が来て「今、相野谷でも政令に反抗するつもりで、寺に集まって協議している。神内も参加するならよし、もしせぬのなら、村中に火をつけるぞ」と云われて、参加する事になり、村民約百名が、ムシロ旗を立てて、竹槍、火縄筒を持ち、ホラ貝を吹きながら、相野谷へ向かった。
しかし、相野谷村は何の騒動の気配もなく拍子抜けして帰る。的場甚作にまんまと騙されたのである。
甚作には、侘証文を書かせ一件落着となったが神内村が徒党を組んで徴兵に反対したとの事で首謀者9人が三重県山田裁判所に送られ、54日間の牢獄生活の後「百叩きの刑」で放免された。
この騒動が発端となって、全国的な反対運動となり、結局、政府は政令施行を三年間伸ばさざるを得なくなった。
この百叩きの刑の時、それを執行した警官は、「お前達のお陰で私は徴兵検査を受けなくても良い歳になった。」と云う事で振り上げて一回、振り下ろして一回という様に数え、都合、叩かれたのは五十回で済んだ。
この刑で放免になった九名を迎えに行ったのは、神内の代表、坂本源之陣(現、阪本家)であった。
尚、色川村民も、この反対運動に呼応するつもりであったが、神内が一日早く行動してしまったので、機を逸してしまったそうだ。

この様に徴兵検査の施行が三年伸びた陰には、国民を代表して刑を受けた神内の住民の犠牲もあったのである。

この項の協力者
新宮市千穂在住  竹内 靖氏
紀宝町神内在住  阪本 正文氏