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高山の里、九重の里

一、高山の里

本宮町に高山という所がある。
川の左岸であり、西向きの斜面であるため、大変日当たりの良いところである。
現在四十軒位の家が建っている。和紙の生産地としても知られていた。

この高山の里は平家一門の、兵庫氏が拓いた里であり「兵庫組」といって、兵庫氏の財を守るために組織された組があった。毎年、交代で座元がなり「兵庫氏神社」や財宝の管理を行ってきた。たぶん骨董品的なものが多かったのだと思うが今では散財してしまって残っていないそうである。

古文書は、大前家に保管されていたそうですから、それが残っていれば、当時のことが色々解明されるだろうが、数十年前に焼いたとの事である。
集落を見下ろす高台には、三社が祀られており、手前から兵庫氏神社、稲荷社、金比羅社となる。いずれも兵庫氏に縁のある神社であろう。
兵庫神社には抱き茗荷の家紋が刻まれている事から、これが家紋であろう。
この高山の里は兵庫氏が拓いた里であるが、その本家は、篠尾(ささび)にあった。篠尾は高山の北、十キロの山中にあって、平家の兵庫左衛門尉氏永が、その子勝正と正信を伴って落ちてきて隠れ住んだ里である。

高山の里は、開けた里で、人目につきやすく隠れ住む所ではないので、源氏の追及が無くなった頃に、篠尾の兵庫家の子孫の人が分かれて高山に来たのであろう。

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二、九重の里

高山の里の八キロ東に九重という所があり、平家落人が住んでいた。現在新宮市三輪崎に住んでいる露谷家もその一人である。露谷家は元々九重の対岸の花井(けい)に住んでいたが、明治二十二年の水害で家が流され、九重の山の上に移住した。その水害で鎧、刀、槍等が流され、現在残っているのは、反りの強い刀と槍先だけである。慶長年間(一六〇〇年頃)の長訓という者の代には、本宮大社傘下の楊枝村浄楽寺の寺主を務めており、北山一揆の際の武功により、新宮城主、浅野忠吉より二百石を賜っている。

露谷家には、立派な弘法大師像が祀られている。また、弘法大師を描いた掛け軸も保管されているが、長訓は社僧であった事から長訓の収集物であったのであろう。
九重の里のすこし上った峯という所に、「厳島神社」が祀られている。享保十七年(一七三二年)創建で、なかなか立派な神社である。「厳島神社」といえば広島にあり平家納経で有名で、平家の守護社である。平清盛も一一六八年に社殿を造営している。

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祭神は広島の「厳島神社」と同じ市杵島姫命と弁財天である。
祭日は昔は十二月一日であったが、今は十一月二十三日にやっている。
創建後三百年近く経っているだけあって、神社の周囲には一位樫や檜の大木が多く見られる。このような山里に住んでも、平家の落人たちは、このような立派な「厳島神社」を建て、心のよりどころとして、崇拝してきたのである。

花井(けい)には一六〇〇年頃に創建された、高座山吉祥寺という寺があるが、(御本尊は聖観世音菩薩)花井は無住となってしまったので寺も閉山となっている。

花井は紙漉きの里で花井十文字紙として有名であったが、これは美濃の国、高須城の城主、高木十郎左衛門の娘である貞子姫が教え広めたからである。

十郎左衛門は関が原の合戦で大阪方に味方したため、城を攻め落とされ出雲国で死亡したが、その時二人の娘に熊野の百夜月(ももよづき)に行くようにすすめた。紅梅寺に住んだ貞子姫はそのお礼に美濃で覚えていた紙の漉き方を花井の人に教えた。

貞子姫は一六二九年九月に死亡し、その墓は吉祥寺の境内にある。
(美濃の国は岐阜県南部にあり、和紙の里で、美濃紙として有名である)

百夜月は花井より三キロ程上流にあり、そこには光月山紅梅寺がある。紅梅寺は一三〇〇年代に護良親王(もりながしんのう)の側室が住んだ寺であり、その側室の墓(五輪の塔)がある。
花井といい、百夜月といい、紅梅寺といいまったく女性らしい風流な名前のついた所であるが、百夜月となった地名の由来にこんな伝説がある。

この紅葉寺に美しい尼僧がひとり住んでおり、思いを寄せた対岸の村の若者が人目を忍んで会いに行こうとしたが、途中で月に照らし出された。

どれだけ通っても必ず月が出るので、母に打ち明けたところ「あの方は仏様をお守りしているから、お前は好きになってはいけない。お月様はそうした人が悪さをしないようにずっと見ているのだ。だから百夜通っても会えないよ」と諭された。
この事から百夜月という地名になったそうだ。

この尼僧は護良親王の側室だろう。親王の正室または側室として伝えられている人に

〇、南の方―(北畠親房、または藤原保藤の娘)
鎌倉で親王の世話をしていた。鎌倉の妙法寺に墓がある。

〇、雛鶴姫―(竹原八郎の娘、滋子)
十津川に帰っていたが、護良親王が殺されたと聞いて急ぎ鎌倉へ上り、親王の御首級(木で型取りした首)を抱いて京をめざす。山梨の都留市で親王の子を出産したが母子ともに死亡、そこには雛鶴姫の墓がある。

なにしろ十津川の河津の里(谷瀬の吊り橋の近く)には七人の妾が居たという事ですから、百夜月の尼僧もそのうちの一人であったのであろう。

護良親王は後醍醐天皇の子であり、鎌倉幕府に追われて大塔村から十津川、北山に落ちて来ており、近くの北山村には親王を護った竹原一族の屋敷跡もある。
護良親王はその後,足利幕府に迎えられて征夷大将軍となったが、鎌倉に送られたあと足利尊氏の弟の直義に暗殺された(二十八歳)。墓は鎌倉にある。

さて、紅葉寺に住んでいた尼僧は老齢になったので、寺にある宝物を皆に分け与えようと考え、川下の人には花瓶を与えた。それで花井という地名が生まれ、川向いの人には九つの重箱を与えたので九重となった。また、上流の人には竹の筒を与えたので竹筒(たけとう)となった。

この花井や百夜月の近くに大河内という所があり、後南朝時代、尊秀王と忠義王が旗揚げした所である。そこには「大河内行宮跡」の石碑が建っている。

この様に、ここ紀和町は南北朝時代、歴史的にも重要な地であった。

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参考文献  平家伝説の里を訪ねて (平成九年、垣内高彦著)

百夜月        (昭和五十四年、九重小学校編集)